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こんなはずではなかった。子供のころに抱いていた大人への漠然とした憧れ、期待、夢……それらは想いの大きさに比例して、強く今の僕を打ちつける。
「こんな人生だったっけか?」
僕は一人、高い陸橋の上から真下を覗く。下には十数分おきに走る電車、撥ねられたらさぞ痛いだろうな。
今日も仕事帰りにいつものごとく陸橋の上で自殺を試みるが、いつも思い切りがつかなくて家に帰る。ここ半月はずっとそんな調子だ。
ベッドに入り眠りにつく。最近はよく夢を見ているのだが、何を見たかは憶えていない。ただ見たという感覚だけが残るのだ。
何もない真っ白な空間の中、目の前には子供の頃の自分が真っすぐに僕を見ている。その視線は清らかで、暖かくて、それでいて少し寂しそうに映った。
「これで半月のあいだ毎日会っているね」
少年の僕は少し見上げながらこちらを見る。そうか、たしかに毎日夢を見ている。
「そうだね、だけど起きると内容を憶えていないんだ」
「しょうがないな、じゃあまた話そうかな?」
少年の僕は楽しそうに笑い、自身の夢を語る。そのどれもが抽象的で曖昧で、けれども僕が本気で追いかけてきたものだった。
「こんなこと君に聞くのはおかしいと思うけれど……君から見て、夢を叶えられなかった今の僕は何点かな?」
ふとこんな質問を口走った。子供の頃は誰かに採点されなくても自分を保っていられたのに、すっかり弱くなったものだ。
「たしかに夢は叶わなかったけど、それに向かって真っ直ぐに突き進んだ未来の僕に点数なんて似合わないよ。まだまだこれからだろう?」
過去の僕は決め台詞のように堂々と言い放つ。
これは参った。過去の自分に挑発されては堪らない。まだまだ死んでやれない。
「そう……だね」
大人になっていろいろ経験して、ひたすら追いかけて、そしてたくさん失った。失ったものは戻ってこないけど、彼の言う通りだ。まだまだこれから……失った分だけ、余力はこの身に残っているはずだ。失った分はまた取り戻せばいい。新しく手に入れればいい。
夢を追い続けた僕には、形のある物はなにも残っていないけれど……経験や情熱、形のないものは確かに心の中に居座り続ける。己を鼓舞し続ける。
「ありがとう。忘れていたものを取り戻したよ。だから……もうお別れかな? 明日は会わなくても大丈夫そうだ」
僕がそう告げると、過去の少年の姿をした自分は、満足そうに微笑みながら真っ白な背景に溶け込んでいき、やがて完全に姿が見えなくなった。
目が覚めて窓の外を見ると、ちょうど夜明けだった。朝日が鋭角に僕の寝ぼけた顔を照らす。まだ寝ててもいい時間だが、今日は何故か心が軽い。それでいて昨日までの何かが欠落したような感覚は消え去っていた。
長い夢を見ていた気がするが、内容はあまり憶えていない。だけどいつもと違い、なんとなく誰かと話していたような、そんな感覚が残っていた。
僕は出かける準備をして外に出る。今日は散歩をしてみよう。いつもと違うことをしてみよう。
家を出て歩き続けると、ここのところ毎日帰りに寄っていた陸橋が目に付いた。その陸橋に近づき、今回は下ではなく上を見上げる。
「もう迷わないよ」
僕は誰もいない夜明け空の下、おいてきた過去の自分に告げるように、一人でそう呟いた。
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