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 高校二年 三月。  入院していた母親の容態が急変したと連絡が入った時、郁葉は現国の授業を受けていた。  突然教室の前の扉が開き、事務教員が顔をのぞかせた。 「坂井 郁葉くん、緊急の呼び出しです」  板書をしていた現国教師はとっさに郁葉を振り返った。 「荷物を持って職員室へ来てください」  立ち上がった郁葉は、自分でも血の気が引いているのがわかった。  指先が冷たい。 「大丈夫か? 坂井」  現国教師が歩み寄ってきた。 「はい」  ほとんど機械的に返事をして、郁葉は自失の状態から無理矢理もがき出た。  カバンとブレザーを腕に抱え、職員室に行くと担任は教頭と話しをしていたが、郁葉の顔をみるとすぐにこちらに向かってきた。 「坂井、お母さんが危篤だそうだ。一緒に病院へ行こう、先生が送って行くから」 「はい」  思考が麻痺していたのは、かえって幸いだったのかもしれない。  担任の運転する車内はやたら暖房が効いていたのに、あいかわらず握りしめた指先は冷たいままだった。 「大丈夫か?」   担任は気を遣ってくれた。 「はい」 「他の家族や連絡したい人がいたら言いなさい、すぐに呼んでもらうから」  郁葉は頭を振った。 「いません」 「そうか」  担任は声を落とした。  生き別れの父親がいるらしいことは、母親の言葉の端々から察してはいたが、どこにいてなんという名前なのかわからなければ、現実にはいないのと同じことだった。  そのことを告げるべきか黙っていていいのか、迷っている間に車は病院に到着した。  母親の病室は静かだった。  顔を見たとたん、母がもうそこにいない事がわかった。  生きるための熱も、痛みも、執着もそこにはなかったから。  最期を看取ってくれた医師と看護師が待っていてくれ、母が朝の検温の後で急に心不全を起こした経過を説明してくれた。    入院は二度目で、再発だった。    他に伝えるべき家族がいないことと、郁葉の強い希望をくんで余命についての説明は受けていた。  母には伏せておいてほしいと伝えた郁葉の言葉は尊重され、母はじきにまた退院して仕事に戻れると信じていた。  一進一退の病状が、次第に劣勢になっても、母は気丈で楽観的だった。  退院したらあれが食べたい、あそこに行ってみたい、誰それの新刊が読みたいと無邪気に口にする母をときに適当に流していたことを後悔した。  ひとつでも叶えてあげられることがあったのではなかったか。  わずか三ヶ月余りの入院生活だったのに、心を尽くして母の最期の日々に寄り添えたか、郁葉には自信がなかった。 「母さん」  点滴の痕だらけの腕にそっと触れてみた。  ハリのない肌は冷たくて、手を握っても握り返してくる母はいなかった。 「お母さん、痛がってましたもんね」   顔なじみの看護師が代わりに郁葉の手を取って握ってくれた。  担任と看護師に支えられるようにして病室を出るとき、肩越しに振り返った母の顔に白い布が掛けられるのが見えた。  病みつかれ、二度と笑うことのない母の顔をもう誰にも見られなくて済むと思うと、なぜか安堵の気持ちが広がった。    
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