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燈吉(とうきち)の場合
僕は家を飛び出した。擦り切れた運動靴は、地面を直接蹴っているかのように底がペラペラだった。
東京が、ここから走ってどのくらいかかるか知らない。でも、と踏み出した足の前に、大人の靴が4,5人分立ちはだかった。
「もうちょっと待ちなさい」
「いつのまにそんなこと知ったんだ」
「約束を守れない子はいい大人になれないよ」
なぜ。
母ちゃんは今にも息が止まりそうなんだ。父ちゃんに会わせたいと思って何が悪いんだ。もうちょっとって、何でも今すぐやるのが一番じゃねえのか。知ったのは流れ者の占い師に「掃除していない場所を探しなさい」と言われた通りに防空壕の名残の隅で見つけた手紙だ。父ちゃんの住所と宛名はそれでわかった。結婚する約束を裏切ったとの詫びがそこに書いてあった。だったら約束なんて。父ちゃんとのそんなもん、何で守る必要がある。
東京のエラい人の娘と結婚した父ちゃんが、この村にいっぱいお金を払った。それで母ちゃんと僕らの面倒を見てくれって。
どう見たってうちの暮らしに不似合いな三種の神器が家にそろってる。洗濯機、冷蔵庫、テレビ。母ちゃんの刺繍の内職と僕が近所の田畑を手伝うだけでは、とても買えない代物だって小学生の僕でもわかる。
村全体にも、学校のプールだとか運送のトラックだとか、村祭りにも派手な花車とかご馳走とか、寄付ってのをいっぱいもらったらしい。村祭りの夜、酔っぱらった大人たちが「月がとっても青いから~♪」と大声で歌い踊りながら、そんなことを漏らしたのを聞いた。
その代わり、僕らに父ちゃんはいないということにする。絶対に名前や住所を知らせないように。それが、父ちゃんとこの村との約束。
ボロ靴は、僕が言わないから買い換えてないだけだ。言えばすぐその分の金か新品が送られてくる。望めば本でも筆でも机でも。そういうこと一つ一つに、僕は不自然さを感じていた。
「僕らは、父ちゃんに会っちゃいけねえのか?」
「もちろんそうだ」
「それがお前らのためだ」
村の大人たちがみんな言う。いつもごはんを作ってくれる隣のおばちゃんも、僕が田畑を手伝うおっちゃんも、分校の先生も、うちに来てくれるお医者も。母ちゃんだってそうなんだ。みんな「行っちゃいけない」って。
けど。
「そんなんでも母ちゃん、きっと会いたいと思ってるべ」
「おらもそう思う」
「会わせてやりてえ」
「うんうん」
弟2人と妹ーー実際はいとこたちだけど、とにかくみんな僕の思いと同じだった。
どっちが正しいんだろう。
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