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そこは涙が甘い世界だった。月夜の晩、キラキラと地面から昇る雨を横目に、誰かに呼ばれた気がして僕は家を飛び出した。
何で泣いているの?
途中で魚が聞いてきた。
僕はノロノロと走っている最中で、未だに乾かない頬にちょうどうんざりしている時だった。
魚は蒼い鱗を風に泳がせて、気持ち良さそうに浮かんでいる。
その肢体を強く噛み締めたらきっと苦いのだろうなと思った。
「わからない」
「そんな時もあるさ」
自分から聞いてきたというのに、その魚は僕が応える解答には端からさして関心はなかったようだ。まるで最初から用意していたかのような語呂を残して、魚は空へ潜っていった。
たどり着いた場所は学校だった。普通夜ならば閉まっているはずの校門が、まるで歓迎しているかのように、大きく口を開けて待っていた。足を踏み入れるのには躊躇いはなかったが、ふと寂れた門をよく見たら暗闇から伸びてきた蔓や蔦に絡まれていて、少し不気味に思った。
下駄箱を通り過ぎたら屋上があった。普段、みんなと青空の下、太陽をお供に昼御飯を食べる場所だ。いつも笑顔が溢れるその場所は、今は海で満ちていた。星屑がキラキラと浮かんでいて楽しそうだ。夜の海には気を付けてと誰かが言っていた気がするので、僕は靴は脱がずに浅瀬を通って出入口に向かった。黒いさざ波は温かかった。
階段を登ると普通の教室があった。もう1つ登ると自分の通う教室があった。どうやらこの世界では階段を登ると下る事になるらしい。一階が屋上で、二階が四階、今いる三階はちょうど三階。ここだけいつもの通りだった。
教室の中を覗き見ると、誰かがいた。見たことのない女の子のような容姿だったけれど、気が付けば僕は「ヒナタ先輩、」と口をついていた。
「遅かったねナオヤくん」
いつも、ん?なあに?と言って僕に振り返るのと同じ表情で、その女の子は僕をみた。先程は真っ黒なスカートを履いていた気がするが、今は真っ白なワンピースを着ている。
「あ、涙。ちょうだい」
どうぞと言う前に、僕の頬を細い指がひと撫でした。
指は僕の涙を数粒捕らえ、その内の幾つかは先輩の口内へと転がった。
「ナオヤくんのは、やっぱりおいしいね」
「そうですか」
「うん。これね、真珠になるんだ」
先輩は僕の涙を手のひらに転がして遊んでいる。キラキラと光りを吸い取っていくようなその光景はまるでダイヤモンドだった。
「パンプスが欲しいな」
「…靴ですか」
「うん。赤いパンプスが欲しいなぁ、エナメルの」
先輩は真っ赤な舌を覗かせながら窓際に肘をついてため息をついた。
「すみれの砂糖漬けが舐めたいなぁ」
「ほしいものだらけですね」
「そう。ボクは欲張りなんだ」
2人で窓の外を見上げる。
青と黒が入り交じったような海のような空にはぽっかりと三日月が逆さまに浮かんでいて、あたりには星が思い思いに遊んでいた。とても綺麗な水平線だった。
「この世界には慣れた?」
「不思議だらけですね」
「ふふ、まぁ好きになるかならないかは個人の勝手だから」
じきに慣れると思うけれど、早く家に帰ってもいいかもね、とヒナタ先輩は歌うように言った。その柔らかな声はどこか酷く懐かしく、時計が刻む旋律ととてもよく溶け合うものだった。
「何で泣いてたの?」
「魚にも聞かれました」
「ふふふ、皆きみが大好きだから」
「そうなんでしょうか」
「うん、そうなんだよ。大好きなんだ」
ふうんと鼻を鳴らしてもう一度月をみた。
「見て、」
先輩は白い人差し指で、広がる空を差しながら呟いた。
「じきに、海と星が降るよ」
沢山、沢山。
***
朝日というものは比較的規則正しく常に毎日昇ってくる。僕は今日もその眩しい日差しに目をこすりながら、おはようナオヤくんと毎日言ってくる見えない先輩に向かって言った。
「不思議な、夢を見ました」
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