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目的地はここから1キロほど離れた、彼のマンション。
小さな駅から距離のある場所だからか、歩いている人は少ない。単身世帯が多いのか、子供が学校に行っている平日だからか、子供の声も生活音も控えめで、狭い住宅街に入ってもひっそりとしている。
休日の朝、6時半に起きてランニングするのは私の日課で、そのときは化粧をしていない。安波と会ったのはそのランニングコースにあるバッティングセンターだった。朝5時からオープンしている店の前を何度も通ったことはあった。
けれど、中に入ったのは早朝割引のポスターを見つけ、もう記憶から離れてしまった、いつの日かのこと。
バットなんて握ったこともなかったのに、試しにチャレンジしてみると偶然にも一球だけ当たった。学生時代にテニスをしていたから感覚は違ったのだけれども、一度当たった快感がビリビリと体を奔り、それ以降、クセになった。
「経験者?」
と、安波がふいに話しかけて来たのは本格的に日課になったころ。日の出が早くなった春のはじまりで第一印象は、田舎のヤンキー、だった。
初対面で年齢が分からないのにタメ口で、その後すぐ私の顔をためらいなく覗きこんだ。
「……あんた、顔のつくりがキレイ。……よく言われるだろ?」
無視してバットを振っていると、今度はネットを潜ってバッターボックスに入って来た。図々しい行動に動揺し、
「入ってこないで。頭、割るよ?」
と、睨むと彼は、私をじっと見た。
「……攻撃的。分かりやすいドS?」
「……初対面でその質問、キモすぎ」
と、もう一度睨むと、
「確かに」
と、彼は反応を咀嚼したあと、ゆっくり答えた。
「キモいって、いいわぁ。シビれる」
思わぬ反応に、面食らう。
「……何、シビれるって」
私はそのまま距離を取るために、彼の顔にバッドを差し向けた。
「もっとシビれたいの? 変態?」
これ以上近づくと無傷じゃすまないぞ、の意味も込めた。
「あ〜、俺、変態かも。そうやって嫌がられば、嫌がられるほど仲良くなりたい。……スーパーポジティブ?」
「知るか」
と、答えた後、私は俯いて笑顔を隠した。
なんだ、ちょうどいい。
取り繕わずに、素のままでいいのか。
「……じゃあ、もっといろいろ言おうか? 大の好物はーーー」
最後まで言って、引かなかったら、関係を持ってもいいかも、と薄く笑う。
「大好物は、男の泣き顔」
彼は、無表情のままだったが、軽く頷いた。
「そうきたか。……自分からは泣かないけど、泣かされてはみたい、かも」
ダメな男だなぁ。でも、嫌いじゃない。安波M男、はい、インプット完了。長いから、ただの安波で。
その欠陥は決定打となり、私の都合が合えば、だらしなく遊ぶ関係を始めた。
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