stance.1

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 彼女たちが噂ばなしをやめたもうひとつの理由であろう、グレイスーツを身につけた40代なかばの男性が入ってきた。 「フロアマネージャー、おはようございます」  彼女たちから挨拶を受け、毅然とした様子で返事をしている。革靴はそのままフロアを鳴らして私に近づいてきた。 「三浦さん、おはようございます」 「おはようございます」  この前相談した件、いいですか? と、彼は丁寧にセットされたロマンスグレイに手をやった。皺ひとつないYシャツに接客を意識した胸元には「坂井(さかい)」とネームプレートが光る。細身ですらりとした体型と、ピカピカに磨き上げられた革靴は意識の高さがうかがえる。以前、この休憩室で彼が定額制のフィットネスジムに通っていると誰かが噂していた。中年太りとは無縁な背中に続き、社員専用通路に入った。  このモールの1階を任せられている彼は実質的な支配人という立場で、各テナントの売上や社員の接遇をチェックするのが仕事だ。コンプライアンスに細かく、潔癖に近い仕事ぶり。ここで働き始めたら、この人の情報を先輩から教わるのは必須になっている。  彼に目をつけられると、ここではいられない。  アウトレットとは言え、接客スキルを重要視し、各テナントに対して接客時以外も言葉使いや社員同士でもクリーンな態度が必要だ、とねばねば言われる。  見た目はイケオジ。  しかし、中身は納豆。  外見が整っているひとに隙のない正論を言われると、ポジティブな印象が一気に下降する。離職率を下げるために、坂井マネージャーの情報伝達は必須だ。  まるで意識の高い納豆。略して……、納豆マネ。  心の中で呼び過ぎて、うっかり口に出しても、納豆マヨと答えればいいだけ。  私の好物でーす。実に美味しいでーす。問題ありますぇーん。  ミーティングルームに入るとリクルートスーツを身につけた、肌がつるんとした女の子が居た。彼女は私たちを見るなり、目を輝かせ、椅子からすくっと立ち上がる。  納豆マネは目配せをし、私を見た。 「こちらは三浦そよかさん。このモールの社員で、オフィス業務を行っています。山本さんの指導係です」 「アルバイトで入りました、山本さよと言います。よろしくお願いしますっ」  フレッシュな新人といった様子で、以前から小出しにされていた情報を思い出す。  最寄り駅から5つほど離れた大学に通っている三回生。今回はアルバイト枠での採用であること。ゆくゆくはこのモールを経営しているグループ会社へ、正社員として働くことを希望している、など。  低い位置で結んだ黒髪を団子のように束ね、腫れぼったい一重にくるんとマスカラが乗ったまつ毛があがる。小さな口にまるい鼻。  ゆとり、さとりを通り越し、今はZ世代っていうんだっけ。  戦隊もののような世代の名前だが、名前に反し、彼女はおっとりとした雰囲気だ。 「よろしくお願いします」  女にしては低いトーンで私が挨拶をすると、彼女は納豆マネを見た。じゃあ詳しくは三浦さんに、と言い、私の足を見るとにこやかな笑顔を消した。 「……その靴、……まだ履いていたんですか?」  出た。納豆発言。 「はい?」 「以前も指摘しましたが」 「何をです?」 「……その靴です。いくらオフィス業務がカウンター内でのお客様対応や電話がメインだからと言って、足元に気を使わなさすぎです。三浦さんは業務態度が真面目ですから、意識を靴まで……」 「はぁ。……最低限度の身なりは整えています。それに、この靴は履きやすいですし、問題はないと思います」 「その返事は以前と一緒ですね。女性なんですからもっと見た目にーーー、せっかくの……、いや」  紳士的な物腰ではあるが、困ったように彼は首をふった。 「せっかく、なんですか?」  納豆マネを探るように見上げる。  彼は私が入社した頃を知っている。外見を今のように“完璧”に武装せず、母そっくりの顔でややこしいことになっていた私を。  そして、私も彼がフロアマネージャーに出世したのか知っている。  互いの弱いところを握り合っているため、彼に目をつけられても、私はこのモールで仕事を続けることができる。  切り札はなるべく多い方がいい。 「……いえ、なんでもありません。これ以上言うと山本さんに私がパワハラをしているように思われかねません。……しかし、……靴のことはもう一度考え直してください」  では、と背を向けた上司に心の中で舌を出す。  隣で山本さんが見ていなければ、実際にしていたかもしれない。再来月、35になるのに、それはさすがに大人気ない。分かっているが、男のひとより優位に立ちたい性格は簡単にはかえられない。  困っていたり、うろたえていたり、動揺していたり、感情を揺らしていたり、……極め付けは……。  と、おっとダメダメ。  職場で、指導係に当たったからには、自制しないと。 「……、改めてよろしく」  簡潔、地味な言葉で挨拶を。 「はい、お願いしますっ」  山本さんはあどけなく笑い、ふわっと前髪を浮かせて、お辞儀をした。
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