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077:モノクローム
目の前の大きな窓を、幾筋も流れを変えながら雨が流れ落ちて行く。
その光景を、所々節が目立つ一枚板のテーブルに冷めてしまったコーヒーカップを前に、テーブルに相応しい手作り感の強い椅子に腰を下ろして長い脚を持て余し気味に組んで見つめているのは、仕事が休みだった為に一人でふらりとお気に入りのカフェにやってきた慶一朗だった。
肘置きに肘を置いて頬杖をつきながら窓を流れ落ちる雨の行方を先程からずっと見つめているが、控え目に流れているラジオの雨雲を吹き飛ばしそうな陽気な声も耳に入らないようにただぼんやりと座っていた。
カフェの店内は観葉植物があちらこちらに置かれていて、他のテーブルの客の存在が気にならないようになっていたが、慶一朗がこの店に来た時に決まって座る席は、窓に向かって座るカウンターで、椅子も隣とは少し広めに間隔を取って置かれていた。
手作りの椅子に同じく手作りのクッションを背もたれにし、深く腰を下ろせば立ち上がれなくなるほど座り心地の良いそこで、店主自慢のサイフォンで淹れたコーヒーを飲むのが、何もない日の慶一朗の貴重な日課だった。
日本に行けば兄のパートナーである一央が働く、昔ながらの喫茶店という表現が相応しい店に行き、カウンターでコーヒーを飲んで一央や気の良いオーナーらと話したり、休憩にやってくる兄、総一朗と他愛もない話で盛り上がったりできるが、慶一朗が生活の基盤を置いているのはオーストラリアで、日本にもよほど重要なことがない限りは帰ることは無かった。
この国で暮らして行く上での不満はさほど無かったが、当初慣れないうちは日本では意識することなくコーヒーと注文すれば出てくるドリップコーヒーがなかなか飲めない事に苛立ったこともあったが、今ではすっかり此方のカフェのオーダーに慣れていて、初めての人が聞けば何を意味するかが全くわからない魔法のようなオーダーを出来るようになっていた。
だが、いくら慣れてしまったとはいえ、時々無性に日本で一央が淹れてくれたようなコーヒーを飲みたくなる時があり、そんな時に見つけたのがこの店だった。
オーナーは日本出身のようで、初めて訪れた時、慶一朗も日本出身だと分かると少しだけ嬉しそうな表情になったが、日本語はほとんど話せない事や日本人には見えないとよく言われる事などを伝えると、それ以降は慶一朗に対して母国語で語りかけてくることはなくなった。
そんな、いわばただ一人の客に合わせるように言葉を選んでくれるオーナーの気持ちが嬉しくて、ついつい予定が何もない時には顔を出し、オーナー自慢のコーヒーを飲んでは、ラジオの声や持参した本に意識を向けたりと、心身のリフレッシュを図るようになっていた。
店内の家具などはほとんどが手作りらしく、木の温もりや手作りのファブリックの気持ち良さに、あまりこだわりがない慶一朗でさえも居心地が良いとついつい長居をしてしまう程で、友人知人達にはこの店の事を話していなかった。
仕事上での付き合いのある人達に己の居心地の良い場所を教えるなど、自分で自分の首を絞めるようなものだとわかっている為、休日は何をしていると問われて家でビデオを見ながら寝ていると答えることに決めていたが、ただ一人だけにはこの店の事を教えていた。
実は今慶一朗が冷めたコーヒーを前にぼんやりと雨が流れ落ちるのを見ているのは、そのただ一人と待ち合わせをしているからで、あと少しで店に着くとメッセージが届いた為、どのくらい雨が流れるのを待っていれば良いだろうかと、ただ何と無く考えていた。
そんな慶一朗が見つめる窓の外、ウッドデッキから延びる階段の左右に広がる駐車場に白のジープがゆっくりと入って来たかと思うと、慶一朗の前のスペースに綺麗に止まる。
雨が降りしきる中、傘もささずに運転席から長い足を伸ばし、足にしっかり馴染んでいるマウンテンブーツで地面に降り立ったのは、一目見ただけでも目を奪われてしまうほど鍛えられた肉体の持ち主だった。
ボディビルダーのように見せる為の筋肉ではなく、いざという時に人を助けられるスーパーマンになりたいとの想いから鍛えた結果の筋肉をシャツの下に隠し、勢いの強い雨に流石に驚いたように腕で頭を隠しながらウッドデッキに登る為の階段を大股に駆け上がった青年は、雨を落としている空を見上げて溜息を零した後、何かに気づいたように顔を窓に向け、軽く驚いたように目を見張る。
肘置きで頬杖をつきながらじっと見つめる慶一朗の視線に気付き、嬉しそうに口角を持ち上げた青年は、犬か何かのように頭を振って水滴を弾き飛ばすと、ドアを開けて店内に入る。
「ハロー」
「ハロー、・・・待ち合わせをしているんだ、入って良いかな?」
カウンターの奥からにこやかに呼びかけるオーナーに笑顔で頷いた青年だったが、窓際のカウンターに向けて親指を突きつけると、どうぞと掌を向けられて手をあげて礼にする。
「・・・・・・コーヒーが冷めた」
「道が混んでいたから、というのは言い訳になるかな?」
慶一朗が腰を下ろす席の隣に腰を下ろし、互いの顔を見ずに雨の流れ落ちる行方だけを見つめながらコーヒーが冷めたと慶一朗が呟き、青年がひょいと肩を竦めるが、何か飲みたいものがあるかと問いかけながら立ち上がると、特にないと慶一朗が明るい茶色の髪を左右に揺らす。
「────コーヒーを、飲みたい」
特にないと言いながらコーヒーを飲みたいという慶一朗の顔を見下ろした青年は、色素の薄い双眸が意味有り気に見上げてきた事に気付き、彼に向けて大きな手を差し出す。
「・・・買って帰ろうか?」
「それも良いな」
大きな手に手を重ねて立ち上がった慶一朗だったが、マグカップを掴んで冷め切ったコーヒーを一息に飲み干すと、ニヤリと笑みを浮かべて青年の腰に拳を一つ叩き込む。
「痛いな」
「・・・オーナー、家で飲む用のコーヒー豆が欲しい」
挽いたものではない豆そのままのものだと笑ってカウンターの奥にオーダーすると、慣れた手つきで袋に豆を詰めたオーナーは、カウンターの前にやってくる慶一朗にそれを差し出し、代金を受け取った後、試飲にどうぞと一杯分の豆を別の袋にいれてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
お口に合えば良いのだけれどと、コーヒー好きの同志の口に合えば良いと願いつつ笑顔でそれを差し出すオーナーにもう一度ありがとうと告げた慶一朗は、横合いから伸びてきた大きな手がそれを奪い取るようにした為、そちらに向けてもありがとうと小さく礼を言う。
「また来る」
「またどうぞ」
青年が開けるドアを潜ってウッドデッキに出るが、雨脚は衰えておらず、今日は1日雨かと呟くと、青年が先に雨の中に飛び出し、後部ドアを開けて傘を取り出すと、それを手に戻って来る。
「・・・気にしなくて良い」
「お前を濡らすなんて嫌だ」
こんな雨の中を歩かせるなんて許せないが、人目が多い外では無理だからと肩を竦められ、広げられた傘に大人しく入った慶一朗は、助手席のドアを開けて素早く乗り込むと、運転席に回り込んだ青年が傘を閉じて後部ドアから投げ込み、濡れることなど気にしないで運転席に乗り込む。
「・・・本当にすごい雨だな」
「そうだな・・・」
運転席と助手席でさっきと同じように前を向いたままポツリポツリと言葉を交わす二人だったが、慶一朗が靴を脱いで両足を抱えるように体を丸め、右手をそっとシフトレバーに置いた為、それを合図にエンジンを掛ける。
「・・・家に帰ってコーヒーを飲まないか、リアム?」
「飲もうか」
たった今飲んだばかりだろうとの思いが喉まででかかるが、それを飲み込んだ青年、リアムは、シフトレバーを貸してくれと笑って綺麗な手に大きな手を重ねると、くるりとひっくり返った手がリアムの手をキュッと一度だけ握り締め、まるで何事もなかったかのように離れていく。
それを惜しいと思いつつ、雨が変わらない勢いで降る中へと車を走らせる。
助手席で両足を抱え込みながらサイドミラーを見た慶一朗の目に、手作りの木製の看板とそこに書かれている店の雰囲気に相応しくない店名が飛び込んできて、いつも来る度に思うが、店名から連想される雰囲気と実際の店のそのギャップについつい笑みを浮かべてしまう。
「どうした?」
「・・・ナチュラルテイストのカフェなのにな」
どうしてあのオーナーはナチュラルの対極にあるような印象すらあるモノクロームという店名にしたんだろうなと、リアムの問いに笑み交じりに答えた慶一朗は、シフトレバーに乗せられている大きな手の甲をそっと撫でると、家でコーヒーを飲みながら好きなドラマを一緒に観ようと誘いかけ、己の手を顔のそばに引き寄せたリアムに小さな音を立てたキスで了解の返事を受け取るのだった。
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