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048:急降下
その日の仕事は特に難しいものでも、己を快く思っていない同僚の嫌味な視線も気にならない程のものだったが、仕事が終わりロッカーのドアを開けた瞬間、無意識に感じていた苛立ちや焦燥感にも似た感情が沸き起こり、舌打ちをする代わりにロッカーのドアを乱暴に閉める。
くそったれ、どうしてこんな気持ちになる、嫌味な視線を送ってくるのはいつものことだろうと、おしゃれを気取った細い銀縁眼鏡の下からねめつけてくる爬虫類の遠縁のような視線を思い出して胸中で口汚く罵った彼、慶一朗は、イライラする気持ちを抑えるように前髪をかきあげて軽く握りしめる。
いつもならばこれで収まるはずの感情が、今日に限っては延々と補給される悪意の熱に沸騰させられたようで、悪意に染まる熱を吐き出すように息をすると、ロッカールームのドアが開く音が聞こえてくる。
その音に一瞬で表情を切り替えた慶一朗だったが、お疲れと声をかけてきたのが公私にわたる付き合いのあるリアムであることに気付くと、無意識に握りしめた拳をロッカーに叩きつけてしまう。
慶一朗の表層しか知らない人間はその行為にかなり驚くだろうが、公表していないがプライベートでは恋人同士であるリアムは慶一朗の深層近くまでを知っており、何か不愉快なことがあったと気付くと、いつかのように傷を負わせない為に手をそっと握って片手で撫でる。
「…ケイ」
何を怒っているのか、何に腹を立てているのかは分からないが、今ここで感情を剥き出しにするのはお前のために良くない、だからもう少しだけ我慢しろと名を呼びそっと囁くと、慶一朗が肺を空にするような息を吐いてリアムの手が撫でる感触に目を伏せる。
「…今夜何か予定はあったか?」
「ん?帰って日課のトレーニングをするだけだな」
「…ジムじゃなくて家でするのか?」
目だけではなく顔も伏せながら問われたリアムがうんと頷き、握っていた手から力が抜けたことに気付いて掌をそっと重ねて細くきれいな指を包むように指を折れば、それを受け入れたように慶一朗の指も軽く曲げられる。
二人が付き合いだしてからまだあまり時間は経っていないが、その中でリアムが己の恋人について理解したいくつかの事象の中、かなりの恥ずかしがり屋というものがあった。
同性同士だからという理由を差し引いても、家から一歩出たら手を繋いだり腰に腕を回して体を寄せる事など絶対にしてこない程で、一度手を繋ぎたいとそれとなく思いを伝えたリアムの前、この世の終わりのような顔で睨まれた程だった。
そこまで恥ずかしいことなのかと、素直になる可能性の高いバスルームでのスキンシップ中に問いかけると、眠ってしまったのかと疑うほどの沈黙の後、恥ずかしいから家の中だけでいい、外で手を繋いだりすると脳味噌がパンクするから辞めてくれと小さな小さな声で返されて以来、リアムは家で二人きりにならない限り、恋人同士であれば当たり前の人前で手を繋いだりキスをすることをやめたのだ。
だが、今二人きりとはいえ職場のロッカールームでこうして手を組んでも振りほどかれずに不満すら言われないことから、己の恋人が胸に抱え込んでいる感情が精神衛生上よくないことだと気付き、耳元に顔を寄せて今夜の予定を口にする。
「お前が背中に乗ってくれたら新しいトレーニングになる」
「…背中?」
「そう。負荷になってくれないか?」
リアムがにやりと笑って囁いた言葉に慶一朗の顔があげられて色素の薄い双眸が見開かれるが、程なくして小さな笑い声が零れ落ちる。
「普通、重荷になるのは嫌だと思うんじゃないか?」
「そうだなぁ。でも────お前なら構わない」
慶一朗が笑い交じりに呟いた言葉の奥には現実の体の重さだけではない意味も混ざっていたが、それを本能的に察したリアムが暢気な声でお前ならいいと頷き、驚くように目を見張る恋人の頬に素早くキスをする。
「…っ!!」
外でのスキンシップは嫌だと言っただろうと、今のキスに不満を訴えようと口を開けた慶一朗だったが、常に毒気を生み出している沼に引き摺り込まれたような感情が無意識に素直になれと命じていたようで、不満が言葉にして出てくることはなかった。
その代わり、リアムの大きな手を一度きゅっと握りしめて顔を伏せる。
「…帰る前に、ハーバーブリッジを見に行きたい」
「良いな、それ」
あ、でも、いつか言っていたが、目の前を通る船に乗ってイチローに会いに行きたいと言わないでくれと、笑いに混ぜ込んだ本音を伝えたリアムだったが、伏せられていた顔が再度上げられ、口元に柔らかな笑みが浮かんでいるのを目の当たりにし、無意識に組んでいた手をそっと振りほどいて細い身体を抱きしめてしまう。
「…リアム」
「ごめん、少しだけ」
そんな顔を見てしまえば我慢できないと口早に言い訳をするリアムの広い背中を一つ叩いて合図を送った慶一朗だったが、家に帰ってこの広い背中に乗せてくれるんだろう、そんな楽しそうなことがあるのに総一朗の所には帰らないと素直な思いを伝えれば、安堵のため息が零れ落ちる。
「…一度家に帰ろう」
公表をしていない関係のためにそれぞれ己の車で出勤しているが、その車を家に置き、どちらかの車で一緒にハーバーブリッジを見て何か食べて帰ってこようと慶一朗が提案をすると、リアムが了承した証に痩躯を手放して照れたような笑みを浮かべる。
「…本当に、良いのか?」
お前の広い背中に乗ってもいいのかと別の意味も込めながら問いかけた慶一朗に向け、腰を少しかがめて視線の高さを合わせたリアムは、慶一朗の頬を軽く指で摘まんだ後、驚く目に向け破顔一笑。
「お前なら構わない、そう言っただろう?」
たとえお前が抱えているものがどれほど重い荷物であろうと構わない、その為に体を鍛えてきたのかもしれないなと笑うと、慶一朗の顔が三度伏せられた後、小さなものだが目を奪われる笑みを浮かべて小さく頷く。
「…いつものパブで食べて帰らないか?」
「良いな、それ。そうしよう」
お気に入りのフライドチキンやサラダを食べ、好きなビールを一杯だけ飲んでハーバーブリッジを満足するまで眺めた後、どちらかの家に帰って二人でゆっくりしようとリアムが笑うと慶一朗も笑みを浮かべたままもう一度頷く。
その頃には慶一朗の胸に蟠っていた熱も下がったようで、その顔に浮かんでいた陰りもなくなっていて、安堵に胸を撫で下ろしたリアムが己のロッカーを開け、たった今約束をした行動をするために帰る準備に取り掛かるのだった。
そして、約束通りパブで食事をし、秋の夜風に吹かれながらハーバーブリッジをただ黙って見つめていた慶一朗だったが、身体が冷えると同時に頭も冷えてきてもう満足したから帰ろうと己の気持ちを優先してくれる心優しい恋人をガラス越しに振り返る。
もういいかと問われて素直に頷き助手席に乗り込むと、周囲を素早く見回して愛嬌のある頬に素早くキスをする。
「…」
「早く帰ろう」
そして、二人きりになれる家で、いつものようにソファで寛ぎながらテレビでも見ようと笑い、リアムが返事の代わりに車を急発進させるのだった。
今夜は慶一朗の部屋で寝ることにした二人は、リビングのソファにいつものようにお気に入りのぬいぐるみを抱えた慶一朗が座り、そんな彼をぬいぐるみごとリアムが後ろから抱きしめて肘置きに背中を預ける。
慶一朗がテレビを見ながら呟く言葉に同意をしたりやんわりと反論をしたりして、慶一朗の心が急降下と急上昇をしつつ通常の場所に戻ってくるのを手助けしていたが、腕の中の恋人が抱えていたぬいぐるみを床に落とし、リアムの腕の中でもぞもぞとした後、今まで抱きしめていたものの代わりにリアムを抱きしめる。
それがベッドに移動する合図で、慶一朗の髪にキスをすることで合図への返事をし、立ち上がったリアムが難なく慶一朗を抱き上げる。
子供扱いをされているようだから嫌だ辞めてくれと口を酸っぱくして言い募ってもこれに関しては頑なに拒否をされてしまい、最早反論することも諦めてしまっていた慶一朗は、リアムのハニーブロンドを一つ撫でてベッドルームに連れていってもらい、ベッドに降ろされると同時に広い背中を再度抱きしめるため腕を回すのだった。
その頃には職場で覚えた胸のもやもやもジェットコースターのように急降下した焦燥感も完全になりを潜めていて、浮上した気持ちのまま今度はその時とは全く違う熱を生み出し、与えられることでそれに浮かされたような声を上げ続けるのだった。
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