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江古田
相良は帳面を開くと、隼人と圭の前に置いた。
(江古田正司。経済学部。東京出身。父親は杉坂伯爵家の運転手)
その後、弓道の試合での輝かしい結果が並ぶ。
「これ……」
圭が帳面を指さした。
(試合の前日右手の平に怪我を負い、代わりに長瀬隼人が出場し、三位入賞)
「あぁ、どういうわけか、江古田が俺でなくては駄目だと言い張って、仕方なく出たんだ」
「情けない話だが、江古田の代わりになれる選手がいなくてね。長瀬君の実力は江古田も認めていたから」
あの時、隼人は興味もなかったので詳しく江古田の怪我の理由を聞きはしなかったが、酔っ払って近くで飲んでいた見知らぬ男に突っかかり、喧嘩になったのだと今知った。
他に気になったのは、華族を嫌っていたとの表記。不良で、誰かれ構わず喧嘩を吹っかけていたが、華族家の人間には漏れなく絡んでいたようだ。
「一度理由を問うたが、華族は特権を持ち、不要な財産を持ち、全てが不公平な存在だと感情的に吐き捨てた。それきりなにも言わなかったが、憎んでいると言った方が相応しい様子だったね」
相良の言葉に圭は格別な反応しない。周囲はまだ、圭を華族として特別な存在と認識する傾向があるものの、本人はもう、平民の意識なのだろう。
犯罪についての研究をしているのだから、相良も勿論、圭の正体に気付いてはいるだろう。それでも素知らぬ振りで言ってのけるのが流石である。
「卒業の際に就職はしなかったのですね?」
「あぁ。
成績は良くなかった。しかし、頭が悪かったわけじゃない。真面目に生きるのが好きではなかっただけだ。
定職にも就かず、実家から援助も期待できない不良が、実業家として名を馳せる。絶対に有り得ないとは言わないが、そうそうあることではない。彼の住んでいる屋敷だって、維持するだけでもかなりの金食い虫だろうことは想像に難くない。資金は何処から出たのか?
今回の事件を考えれば、彼は私が考えていた以上の問題を起こしているのではないだろうか。
逮捕できて、警察はやれやれと安堵の溜息を吐いているだろうが、本当に江古田の事件はこれで終わるのだろうか」
例の響く声が、さっきとは打って変わって緊張を孕ませている。
「君達はどう考える? 江古田は素直に白状し、事件はあっさりと解決するだろうか?」
圭が、無表情のまま顔を上げた。
「解決すると考えております。
ただ、本当の解決とは少々違うのではないかとは思われますが。
江古田は、大人でも危険で負担の大きな仕事を、集めた浮浪児にさせていたと聞いています。つまりは、大きな企業が複数関わっていると思われますから、警察が本腰を入れるかは、正直怪しいものです
現場で、市民の為に頑張って下さっている方は信用しておりますが、上に行けば行くほど、柵で身動きが取れなくなるでしょうから、全てを江古田に押し付けて、解決させるのではないかと。
あまり褒められたことではありませんが、もしそうなったとしても、これから被害に遭ったであろう子達が救われただけで良しとするしかあるまいかと」
相良は、僅かに唇の端を持ち上げた。
「君は? どう考える?」
「私は、江古田の証言での解決はないと思っています。彼は天邪鬼でしたから、素直に話すとは思いかねます。
正直に言えば私は、彼が分からない。学生時代は、よくある不良だと考えていました。それでも、弓道に対する情熱は本物であったと思っています。何かに必死になれる人間なら、真っ当な道に戻れるだろうと考えていました。
しかし、昨日彼に久しぶりに会って、それが間違いであったと思いました。彼はとても傲慢で、自分勝手でした。一瞬でも彼に信用されたと考えると私は、余程演技が上手かったのか、それとも自分でも知らぬ私の醜い部分を見つけ出されたのではないかと、内心恐怖しています」
相良は口元だけで笑って見せた。
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