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悦子
大学を辞して、事務所に戻ると、玄関前に一人の婦人が心許なさ気に立っていた。
「長瀬様でいらっしゃいますか? 私、日下悦子と申します」
悦子は縋るような目で隼人を見上げた。
「お願いがございますの」
頬も体もふっくらとしている。
「中で伺いましょう。お待たせして申し訳ありません」
隼人は婦人に、先に入ってソファに座っていてくれと頼んだ。
「恐らく例の件だろうが、偽の相馬が死んだことは内緒にしてくれ」
「承知しました。が、何故隠すのでしょう?」
「あの人は身重の様子だ。そういう事は聞かせない方がいいだろう」
動揺が体に与える影響を危惧したのである。安定期に入っていれば兎も角、まだ、妊娠初期の様子で、万一を考えぬ訳にはいくまい。
「分かりました」
心なしか不安そうな表情を、圭は見せた。圭にとって怖いのは犯罪者よりも、壊れそうなほど小さな赤ん坊や、身重の婦人のようである。
「お待たせ致しました。ご依頼の内容を……」
「探して欲しい人がおりますの」
良子と同じくらいの年頃だろうか、可愛らしい顔をしている。断髪を真珠の髪留めで飾っているが、着物は着古した様子があり、柄も少々時代遅れであった。
「相馬有朋を探して欲しいのです」
今までと違う。と、瞬間思った。今までの婦人達は皆、相馬有朋様。と言った。しかし悦子は、呼び捨てている。今までの婦人よりも、偽の相馬有朋、つまり酒井進と親密な関係であると物語っていた。
「相馬有朋と仰る方は、日下様とはどういうご関係の?」
「私のお腹にいる子供の父親です」
圭が万年筆を落とした。
異形とも言える相良の姿を目の前にしても一切動揺しなかった圭が、悦子が身重であることを告白しただけで狼狽える。兄弟もいない男の子にとって身重の婦人は、未知の存在であり、硝子のように壊れ易い、危険な存在なのかもしれない。
いつも通り漢字で名を描いてもらう。相馬有朋であった。
「いつから姿を?」
「一昨日です」
「一昨日。
ご一緒にお住まいで?」
一緒に住んでいたとしても、一日二日帰って来ないくらいで探偵を雇うのは性急過ぎる気がする。
「いいえ。
たった二日でとお思いなのでしょうけど、事情があります。
実は私、相馬と駆け落ちをするつもりでした。たった一人の身内である姉がどうしても相馬との結婚を認めてくれず、身重だと分かった途端、勤めておりましたカフェーを追い出されてしまいまして……。
姉を捨てるから、何処かへ二人で逃げようと私が申しましたら、その時は躊躇しておりましたけれど、二日後、つまりは今から四日前、決心したから。と。
約束では昨日、姉が仕事に出ましたら相馬が迎えに来てくれることになっていました。
が、待てど暮らせど、一向に姿を見せません。それで今日、いつも会っている家に行ってみたのですが、貸家の張り紙が……」
「いつも会っている? つまりその部屋は、相馬さんの住まいではないのですね?」
「はい。二人だけで会うために借りてくれた一軒家です。私は鍵を持ってはおりませんで、その部屋の郵便受けに、何日の何時に。と、書いた紙を相馬が入れて、私がそれを確認して会っていたのです」
まさに密会である。
「相馬さんのお仕事は?」
「自分で会社を興しているとは聞きましたが、詳しくは……。あまり女が仕事に口を出すものではないと言われましたので……」
この様子では、金を貢がされてはいないらしい。
酒井が騙した婦人の中に、職業婦人はいなかった。皆、月本銀行にそれなりの財産を持っている婦人ばかりであったのだ。悦子はどう見てもお下がりの着物を身に着けており、金銭の余裕があるようには見えない。
馴れ初めなどを聞くと、悦子が勤めていたカフェーに客として現れた酒井に、簡単に言えば口説かれたらしい。まずはそれが、悦子の姉、勝子にとって気に入らないようだ。
「姉は、自分よりも先に妹の私が結婚しようとするのが何より、気に入らないのです。
父母を亡くしてから、十一年の離れた姉が私を育ててくれました。それは感謝しておりますけれど……」
「姉様と相馬さんは面識ありますか?」
「一度、会って貰いましたけど、けんもほろろでした。兎に角別れろ。の一点張りで」
「どうやって会わせたのでしょう?」
「私と姉が出かけた先に、酒井が待っておりまして、偶然会った風を装って……」
「それは、貴女の希望で? それとも」
「相馬が、姉を説得したいから。と申しましたので……」
念の為に特徴を聞いたが、やはり、酒井進であるらしかった。
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