26人が本棚に入れています
本棚に追加
山上
家に戻ると、山上が来ていた。
大学教授の元で助手として働きながら、必要とされれば臨時の教師として教壇にも立つ英語教師である。
目出度く、元教え子との婚約が調った花婿修行中の山上は、勇一郎に教わって味噌汁を作っているところであった。
興味のない事は全く覚えようとしないので、今まで家事の類は何一つできなかったが、家庭は二人で築くもの。との考えにより、気持ちを完全に変えた様子である。
一方器用な勇一郎は、ご飯を炊き、ほうれん草の白和えを作り、目刺しを焼いている。
「どうだった? 酒井進とやらのこと、分かったか?」
「分かったような、分からなかったような。
どうやら学生時代から婦人絡みの問題を起こしていたってことは分かった。
それよりも、今日、酒井進と本当に結婚の約束をしていたらしい婦人が来た。その人は金を貢いでいないどころか、結婚の反対をする婦人の姉を説得するために会ってさえいたって言うんだ。
俺の処に来たのも、新聞で知ったってだけで、酒井から聞いていたわけではなかった。まぁ、その新聞は酒井が部屋に置いていた物だったらしくはあるのだけど」
「ペテン師のくせに、本気で結婚するつもりの相手がいたのか」
「何となく違和感を覚えるな」
味噌汁を装いながら、山上は疑問を口にした。
「違和感?」
「そう。
俺が学生の頃、結婚詐欺とは言わないが、複数の婦人から金を引き出している男があってね、そいつは婦人を道具としか考えていなかった。他にも何人かつばめみたいなのもいたけど、婦人の相手をするのは仕事みたいなものだって言っててね。
人それぞれではあるのだろうけど」
つばめとは、明治時代の女性解放運動活動家である女性が、年下の恋人に宛てて書いた手紙の一節が語源となり、年上の女に愛されている男。をさす。
一理あった。
好きだから仕事にした。と言いながら、苦しんでいる人は多い。好きだったら仕事にしない方が良い。という意見も納得できる。
酒井進は女好きであった。だから結婚詐欺という趣味と実益を兼ねた金儲けを始めたのだと考えていたが、間違いだったのかもしれない。
相良に言われた固定観念。それをまず外す必要があった。
「結婚を約束してた婦人と、詐欺に遭った婦人達との違いを並べてみろ」
勇一郎に言われ、考える。
「今日現れた婦人は、男に好まれそうな可愛らしい顔をしていた。
職業婦人で、さほど裕福ではなさそうだ。
酒井進と俺との関係を知らなかった」
「恐らく、出身大学をご存じありませんね」
結婚詐欺に遭った婦人は皆一様に、出身大学を口にした。T大学を出ていれば将来安泰だとの考えがあったに違いないし、そんな世間一般の考えを酒井は、利用したのだろう。
「職業婦人って、仕事は?」
「カフェーの女給だ。妊娠が分かって辞めさせられたらしいが」
カフェーの女給ねぇ。と、独り言ちながらご飯やおかずを盆に載せているのを、隼人が食卓に運ぶ。圭は箸や皿を並べていた。
「騙された婦人達は恐らく、男との接触は殆どない。中には後家さんもいたが、良人以外の男は知るまいよ。
しかし、カフェーの女給ならそれなりに、男の扱い方は知っているだろう。
因みに、腹の子は本当に酒井の子なのか?」
「そんなこと聞けるわけなかろう」
「そりゃそうだ。
知り合ったのがいつだって?」
「半年くらい前だ」
「妊娠何か月だ?」
「三ヵ月……四ヵ月に入ろうとするところらしい」
「一応計算は合うな」
「四ヵ月前から密会の為に小さな一軒家を借りていたそうだ」
「計算ピッタリだな」
山上が勇一郎の頭を叩いた。圭が何か言いたそうにしているのを察知して、隼人は先に口を開く。
「明日、家の大家に会いに行ってみようと思う。大したことは分からんと思うが……。あと、結婚を反対していた姉さんにも」
最初のコメントを投稿しよう!