1/1
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ

 実家には既に、圭と勇一郎が到着していた。  正子にしてみれば、危険なことをしている可能性もある探偵助手よりも、圭の本来の能力が発揮できる通訳の方が好ましいらしく、ご機嫌であった。  主役二人が現れるまでの間、珈琲を飲みながら世間話で時間を潰していた。専ら話すのは正子と勇一郎であり、圭はお行儀良く聞き役に徹している。  正子が、近所で飼われている猫の話をしている時、圭が優しく微笑み、初めて話に加わった。三人で子猫の可愛らしさを話し合っている。猫が苦手な隼人は敢えて口を挟まず、圭の様子を見ていた。  華族であれば大抵、中学に通っている年齢である。男の子であれば身の回りのことをする必要もなく、勉学に励むなり、遊び倒すなりしている頃。もし、父親が生きていれば……考えずにはいられない。  両親が健在であれば圭はどうだっただろう。隼人との出会いは無かったか、あったとしてもずっと後になっていただろうし、親しくはならなかっただろう。  父親の死によって歪められた圭の人生を、少しでも修正できれば。と考えはするものの、どうすればよいのかがわからない。まずは中学に戻すべきなのだろうが、それすら難しいのが現実である。  子猫の話題で盛り上がっていた三人の声が途切れた。主役の登場である。  大きな襟の付いたブラウスに、灰色の丈の長いスカートという清楚な格好の朝子を見て、正子が感嘆の声を上げた。 「まぁ、なんて可愛らしいお嬢さん。お似合いだわ」  朝子は落ち着いた様子で挨拶をすると、可愛らしく微笑んだ。幸せに溢れた笑顔である。  一同は大食堂に移り、食事を始める。用意されていたのは簡単なコース料理。  前菜、スープ、主菜、デセール、珈琲と、本式から考えるとかなり省略しているが、お喋りが一番の目的であるからしかたはない。  緊張しているのか、朝子は少々ぎこちないが、斜め正面にいる勇一郎が早々に箸で食べているのだから、何ら問題はないに等しかった。正子も時々箸を使いながら、ご馳走を食べ進める。 「圭ちゃんは流石だな」  主菜のビーフステークを箸で摘みながら、勇一郎が感心したように呟く。 「中里さんがナイフとフォオクをお使いになられる姿を拝見した記憶が……」 「使えんことはないが、面倒だ」  必要とあらば大抵のことは熟すが、必要としなければ楽を選ぶのが勇一郎である。  圭は自然な様子でカトラリーを操り、上品に食事を進めている。  両親が生前、マナーを身に着けさせるために、二三か月毎にレストランに連れて行っていたそうだが、その成果であろうか。  江古田の館で、圭が必死にお握りを頬張っている様子を見て、別人ではないかと思わず二度見しそうになったのを思い出した。  隼人は反対したが、圭は、利用される子供達を救う為だと一歩も引かず、江古田を捕える作戦に参加した。大森の紹介で、泥棒で生計を立てていた男から針金で鍵を開ける方法を教わり、寝る間を惜しんで練習をしていた。  台所では恐ろしいほどの不器用さを発揮するものの、三日ほどで大抵の鍵は破れるようになっていた。  隼人が心配したのは、浮浪児の振りをすることだった。立ち居振る舞いにこそ、その人の品性が現れるものであるから、どんなに演技をしても、無意識に本性が出てしまうものだ。浮浪児を見た回数も少なく、関わったことは皆無に近い圭が、襤褸(ぼろ)を出してしまわないかと不安だった隼人からしてみれば、ただただ驚きだった。  江古田も呆れる程の品の無い食べ方や、盗みを見咎められた際の乱暴な言葉遣いなど、到底圭とは思えなかった。それだけ圭は、必死だったのだろう。子供達を救う為に。  今改めて、圭の真剣な思いに気付いた。  このまま仕事を続けさせるのか、父親のように語学の道に進ませるのか、どんなに隼人が考えようと結局、決めるのは圭本人なのだ。と。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!