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大佐
「そうそう、以前安原元帥のお宅に招かれた時、紹介されたよね。四十半ばの、同年代では出世頭だっていう」
デセールを楽しんでいる時、思い出したように山上が言った。
「時田大佐か?」
「そうそう」
秋に、庭の紅葉を見に来ないかと誘われて、四人で訪れた。
他にも親しくしているらしい軍人が十人程招かれていて、紹介されたのだ。あの、珈琲嫌いの廣中大将もいた。当然、珈琲は一切ご法度の紅葉狩りであった。
時田大佐は、陸軍軍人にしては細身の、文官のような見た目ではあったが、文武両道の、安原元帥の覚えも目出度い人物であった。にこりともせず、一見すると廣中大将との方が上手くいくのではないかと思わせられた。
「あの人の奥様は、素晴らしい美人だね」
山上にしては珍しい言葉であった。結婚願望が強い男ではあるが、生真面目な性格で、婦人の話を聞いたことが無かった。初めて聞いたのは、許嫁である朝子だった。
「そうなのかい?」
「彼女とカフェーで寛いでいた時、時田大佐が座っているのに気付いてね、挨拶をしていたら、席を立っていた奥様が戻って来て。思わず見惚れてしまったよ」
「お前なぁ、許嫁の前で何言ってんだ。なぁ、朝ちゃん」
「私も見惚れてしまいました」
思い出したのか、朝子はウットリとした目になった。
「軍人らしいっていうか、妻とカフェーでランデブーを楽しんでいたなどと噂されるのも恥ずかしいので、内緒にしておいて欲しいと言われたよ」
「あら、素敵なことだと思いますけど、軍人さんはそうなのかしらね。それでは内緒にしておきましょうね」
お喋り大好きな正子が、気を遣ったように宣言した。こう宣言したならば、正子は口が堅い。
「ありがとうございます。
気の置けない人の前だとつい……」
圭がなにやら、納得したように小さく頷いた。
「どした圭ちゃん」
「時田大佐は、いかにも軍人と言った風な方で、安原元帥よりも廣中大将の方が気が合うのではないかと思ったのですが、愛妻家という共通点があったのですね」
安原元帥と廣中大将は親しい間柄だと知っているが、仕事上では対立していると言って良いほど考えが違うと聞いている。
「廣中大将とはうまくやれねぇぜ。安原元帥だから、気に入られてんだ。
何しろ安原元帥は、人間性第一だからな」
「廣中大将は違うのか?」
「廣中大将は環境が人を作ると考えてる。
実は時田大佐って……」
勇一郎は人差し指を唇の前に立てた。
「朝子さん、私達はあちらで女同士の話をしましょうか」
後は珈琲だけであるから、移動したところでさほど問題はない。朝子は立ち上がると、正子に笑顔を向けた。
「それでは、紳士方は軍人さんのお話をどうぞ」
二人を見送ってから、勇一郎は徐に口を開いた。
「あの人の父親は主義者で、天皇暗殺計画の容疑で警察に捕まった際、自害した」
圭は表情を変えはしなかったが、目が少しだけ大きく開かれた。
「当時大佐は既に軍に所属していた。
父親と言っても母親は内縁の妻だったから、戸籍に名前はない。そればかりか、まだ幼い内に母親の兄夫婦と養子縁組していた。母方は軍人の家系で、環境としては申し分ない。
しかし、廣中大将は、父親が主義者と知られているからには、本人の考えに影響を与えている可能性があると考えるわけだ」
「本人に罪は無かろうが……」
「ないのは当然、大将だって理解してるさ。それでも、疑惑の芽はさっさと摘むに限るってわけだ。しゃあないっちゃしゃあない。軍の幹部が主義者と関わるなんざ、あっちゃならないことだからな。
一方安原元帥は、隼人と一緒で本人に罪はないって考え。皆に平等に機会を与えなければならないってね」
難しい問題である。子供に罪はない。だからと言って国を守るべき軍人からしてみれば、仕方がないと言えなくもない。
運なのだ。どんな親の元に生まれるかは。
幸せな家庭に生まれはしたが、紅い髪や容姿の為に厭な思いをさせられた隼人も、幸せであったがために更に辛い思いをせざるを得なかった圭も。
それでも二人は、恵まれている類の人間だと、隼人は理解していた。
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