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幸せ
「つまりは出世頭なのは、安原元帥率いる陸軍であって、もし、元帥が引退をしたなら、これ以上の出世は望めないだろう立場なんだよな。
大佐の地位に甘んじて軍人職を全うするか、他の仕事に就くか……。
一番の問題は、周りが父親のことを知ってるってことだな。知らなきゃなんてことはない。
育ちはどうにかなるが、生まれはどうしても変えようがない。本人には何ら罪はないのにな……」
今、ここにいる四人の中で生まれも育ちも現在も、幸せなのは誰だろう。と、どうでもいいことを考える。
隼人の考えでは、山上であった。実家は和菓子屋であるがそれなりに繁盛しており、次男坊の山上は希望通り勉強を続け、大学卒業後も自分の進みたい道に向かっており、家族も応援してくれている。
勇一郎は東北の豪農の長男である。勉強を続けたかったが父親が許さず、小学校卒業を目の前に、幾らかの金を盗んで上京したと聞いている。上京後は金銭的は問題があって学校には通えなかったそうだが、あちこちで日雇いの仕事をしながら広がった人脈のお陰で、今の新聞社に勤められるようになったのだとか。
実家とは現在も音信不通で、時々、家を出た時まだ四歳だった末の妹の姫子を中心に、七人いた弟妹の思い出話をすることがある。寂しく、懐かしいのだろう。可愛がっていた弟妹と離れるのが悲しかったであろうこと、勇一郎は口にはしないが、隼人は気付いていた。
「しかし、疑いを持たれまいと大佐は他の人以上に頑張りを見せているのではないのかな?」
「そうかも知れないが、それはそれで辛いことだね」
「評価して下さる方がいらっしゃるだけまだ、救いはあろうかと……」
そうかも知れないが、それも安原元帥だから、である。
朴訥な印象の軍人だった。礼儀正しく、規律正しく、無口で隙の無い男。自らを制し、國を守る為に命を懸ける軍人。
あの日いた軍人の中で目立って細身であった為、他の誰よりも神経質で冷たい雰囲気に見えたが、私生活では妻とカフェーでランデブーを楽しむ、微笑ましい一面もあるのかと、隼人は素直に驚いた。そうして、親近感を持った。
緊張する任務の中、夫婦の時間は大佐の気持ちを癒し、温めるものなのだろうと考えると、少しだけ救われた気がした。
九時過ぎ、五人は長瀬邸を辞した。
「父さんも楽しみにしていたのだけど、今日は戻れなかったね。また連れて来いって言われそうだ」
「あら、また伺うお約束を致しましたわ。シェフが林檎のお菓子の作り方を教えて下さるって。
他にもお庭でお野菜を育てる方法とか」
どうやら女同士で話し合っている間に約束が取り交わされていたらしい。
「母さんが無理言ったんじゃない?」
「いいえ、私がお願いしましたの。お花やお野菜をお庭で作りたいと思ってますから」
朝子の笑顔に無理は見えなかった。どうやら新婚生活の為に色々考えているらしい。正子もさぞかし、嬉しいことだろう。
結婚願望が強かろうと、生真面目で慎重な山上には、朝子のように積極的な女性が良いのだろう。二人の間には穏やかで幸せな空気がまとわりついているように思われる。
隼人が諦めた家庭。今考えると、仕事の為に必要としていたのであって、温かな家庭を持ちたい。等という具体的な希望は無かった。皆がしているのだから自分も。程度の希望……。
人とは違う自分が、人と同じことはできないのだと思い知らされたあの日、漸く隼人は諦めることができたのだ。自分は人とは違う。人と同じ願いを持ってはいけないと。
山上が羨ましく、しかし、二人の幸せが嬉しかった。
そうして今の自分は、それなりに幸せなのだと自覚できた。
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