過去

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 遊郭から戻って来た隼人は、頻りに背広の袖口の匂いを気にしていたが、無言のまま自室に入ったかと思うと、着物に着替えて出て来た。勇一郎が言うには、白粉の匂いが厭らしいのだとか。確かに、勇一郎の着物からは甘い匂いが微かにしている。  着物に着替えて落ち着いたのかと思いきや、まだ、肩先などに鼻を近付けては、匂いを嗅いでいる。恐らく髪に匂いが移っているのだろう。 「今日、相良先生に偶然お会いしました」  珈琲の匂いに紛れて気にならなくなったのか、圭の言葉に反応したのか、隼人は漸く顔を上げた。 「先生に?」 「相良って、お前の大学の法学部の講師か?」 「知っているのか?」 「山高帽と左手の手袋を取らない人だよな。会ったことはないが、過去の事件を探っている先輩がいて、話に聞いたことがある」  失礼にならぬよう相良の特徴を捉えているのに感心する。 「知惠さんと別れてすぐ、お散歩中の先生と……」 「散歩? 先生のお宅はこの近くだったかな?」 「違うだろ。市電で五駅くらいはあったはずだ。散歩にしちゃ随分と遠いな」 「そうなのですね。小さな姪御さんをお連れでしたから、目的地がこの近所にあったのかも知れませんね」  圭は隼人達に、相良から聞いた有朋と酒井の件を話した。 「そんなことがあったのか。  それにしても酒井って男は、婦人は皆自分を好いてなきゃ気が済まない男なのだろうか」 「面倒くせぇ男だな。流石にその件に関しちゃ、相馬に同情するぜ」 「酒井の勤め先はそれなりに名の知れた商社ではあったが、高林に比べると規模は小さい。  相馬が態々高林さんに、こいつは入れない方が良い。と言いつけたとは思わんが、在学中に少なくとも二回は暴力沙汰を起こしているからには、それなりの調査は為されていただろう」  処で。と、隼人が圭に視線を向けた。 「姪御さんって今言ったけど」 「はい。妹さんの娘さんだそうで、五六歳のとても可愛らしいお嬢さんでした」 「あの事件の発端となった妹か」  珈琲を啜りながら、興味があるような無いような様子で勇一郎は呟く。 「先生が襲われたっていう、二十年以上前の事件を追ってるのか?」 「そう。あの時、事件は誰もが知っていたけど、結局犯人は捕まらないままだった。組織的犯行だってことは分かったけど、どの組織かは判明しなかった。  主義組織かも知れなかったし、犯罪組織だったかも知れない。  幸い被害者である相良講師の命は助かったけど、十六才って、圭ちゃんと同じ位の年でだな、大怪我を負った体のまま生きていく運命を押し付けられたってわけだ。少年期ってのは格別、美醜に対して敏感になる年頃だろう。辛かったろうな。  当時の新聞を読むと、相良講師を英雄扱いしているのが多かった。名誉の負傷だってな。妹を命がけで助けた証だって。  一年の療養生活を終えて、元々頭は良かったからあっさりと難関の高校に入って。  まだ少年時代は良かったのかもしれねぇよな、大人達から英雄と称賛されてたんだから。  寧ろ辛いのは今かも知れない。もう、事件を覚えている人間も少なくなってるから、ただの奇妙なおっさんに見えるだろうからな、知らない奴からしてみれば」  圭は、今日、甘味処での周りの視線を思い出した。  圭も見知らぬ人からの視線を向けられる傾向にあるが、それとはまったく違う、ずっと不愉快な視線であった。気付いていないわけは無かろうが、相良は気にする様子はなく、どこにでもいる優しい伯父であったから、圭は穏やかでいられた半面、悲しい気持ちにさせられもした。  ふと、基本的な疑問を思い出した。 「相良先生は、法学部の講師をなさっておいでなのですよね?」  隼人は柔らかな表情で、あぁ。と答えた。 「犯罪者の心理を研究されていると仰いませんでしたか?」  心理は、精神医学の領域であり、医学であるはずだった。 「相良先生は、医学博士でもあってね。  まずは医学部で学んで、更に法学部に入ったそうだよ。  現在は、刑法を主に研究しながら、犯罪者心理を私的に研究中なんだ」  ただただ驚くしか無かった。 「なんて素晴らしい向学心……。  相良先生は、人を惹き付ける方ですね」  恩師。そう呼べる相手がいる隼人が羨ましかった。  圭の心の片隅で、再び中学で学びたいとの気持ちが、首をもたげ始めていた。
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