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チエ
翌日も圭は置いて行かれた。
酒田進の件も気にはなるが、一応解決済みの事件ではある。今は正式な依頼として受けている件を優先する必要があり、ある遊郭に隼人はまた、勇一郎と共に向かっていた。
圭は、隼人の中学時代の教科書を譲り受けて勉強をしていたが、改めてそれらを開いた。
隼人が、圭を中学に戻したがっているのは気付いていた。それでも圭は、隼人の気持ちに気付かぬ振りで過ごしてきた。勉強は好きだが、学校生活は苦手だった。人との関わり、いや、同世代との関りが苦手だった。
加えて、無料で勉強できるわけではない。学費は勿論、勉強に必要な本、遠足などの行事、何かと金銭が必要になる。親兄弟でもなければ親戚でさえない隼人に全てを負わせて学校に通うのは、躊躇われた。
仕事にも未練がある。
中学に戻ったなら、隼人は学業を優先させようとするだろうが、自分にもできることがあるのなら、助手として働きたかった。
考え疲れて、三時を過ぎた頃、気晴らしに書店に向かった。時間がある時、新刊を確認するのが楽しみだったのだ。
玄関を出ると、向かいの家ではいつものように洒落た格好の渡辺が日向ぼっこをしながら本を読んでいるのが確認できた。挨拶をして、二言三言言葉を交わして、再び歩き出す。書店まではのんびり歩いて十五分ほどの距離であった。
「やぁ、お久しぶり」
人気のない道で、厭味な声が聞こえた。振り向くと、見覚えのある顔が見えた。
「貴方は……」
「覚えておいでですか? 男爵」
変装のつもりなのか茶色の地味な着物に、中折れ棒を目深に被り、ニヤニヤと笑っている。
「どうして? 警察に……」
「脱走って言葉をご存知でしょうか? 男爵」
「やめて下さい、私はもう、男爵でもなければ華族でもありません」
「まさか、あんな下品な食い方するガキが男爵だなんて思いもしなかったよ。よくもまぁ、見事に騙してくれたな」
身構えたが、江古田自身も大して力があるわけではないのは、圭が手を振り解けたことでも分かっていた。
「知惠ってのはお前の女か?」
「品の無い言い方をなさらないで下さい。知惠さんは友人です」
「男と女で何が友人だ。それともお前は、男にしか興味ないのか?」
「そういう意味でしたら、どちらにも興味はありません。貴方と一緒にされるのは迷惑です」
江古田は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「お前、落ち着いているが、私が一人だと思っているのか? 一人で脱走できると思っているのか? 脱走ってのもなかなか難しいものでな、仲間がいないと無理なんだ。
そのお仲間が今頃、知惠って女と楽しくやってると思うけど、お友達なら関係ないよな」
背筋が冷えた。卑怯者であろう江古田が考えそうな復讐だと思われたのだ。
圭は踵を返すと、走り出した。知惠の家は知っている。一度だけ勇一郎と共に訪れたことがある。ゆっくり歩いて一時間。一秒でも速く辿り着くために、圭は走った。
「どうしたの? すっごい汗だけど」
扉を叩くと、知惠の声がした。掠れた声で何とか名乗ると、玄関は開かれ、知惠の明るい笑顔が確認できた。安堵で崩れ落ちそうになりながらも耐えた。
ちょっと待ってね。と言って家の中に入って行った知惠が、湯飲みに水を汲んで持ってきてくれたのを、ありがたく頂く。喉の奥が引っ付くような乾きが癒され、小さいながら声が出せるようになった。
「済みません、あの、ごめんなさい、用件を忘れてしまいまして……」
かなり間抜けな言い訳であるが、他に考え付くことができなかった。
「あはは……いいよ、思い出したら電話でもしてよ。
あ、そうだ。会社からの帰りにさ、知らない男から麻上君に渡してくれって頼まれた物があるんだ」
知惠はスカートのポッケットから一枚の紙を取り出した。
「知らない男?」
「そう」
「茶色の着物で中折れ帽の……」
「違う違う、洋装で帽子は被ってなかった。麻上君より上だろうけど、あたしよりは下くらいの」
圭は紙を受け取ると開いた。
「しかし、見知らぬ男なんて、危険かもしれませんから相手にしない方が……」
「そうだけど、麻上君の知り合いらしかったし、人はよさそうだったから……」
紙には一行だけ。すべて片仮名で。
チエノミニキヲツケロ
グシャリと、手の中で握り潰す。江古田の仲間に違いないと思った。予告だと。
次の瞬間、違和感を覚えた。何故全て片仮名で書かれているのか?
知惠の漢字が分からなければ、知惠の名前だけ片仮名にすればいい話だ。文字を習いたての子供なら兎も角、大人からしてみれば、漢字仮名交じりで書く方が楽に違いないのだから。
チエ ノ ミ ニ キヲ ツケロ
チエノ ミ二 キヲ ツケロ
チエノミ ニ キヲ ツケロ
「知恵の実……」
「どうしたの?」
「いいえ、なんでも……。
失礼しました」
知惠が不思議そうな顔をしているのを無視して、圭は再び走り始めた。
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