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殺害
市電に乗っている間に息を整えて、圭は、T大学の中を早足で進んだ。もう周りは薄暗くなっており、学生の姿もまばらであった。
目指す相良の研究室の窓は、暗かった。もう、帰ってしまったのか。心臓が高鳴る。圭は相良の家を知らない。
未練がましく研究室に向かうと、向かいから歩いて来る男の姿が確認できた。
「相良先生?」
祈るような気持ちで問いかける。
「その声は、麻上君かい? どうしたの? こんな時間に。長瀬君は一緒じゃないのかい?」
「あの、お使いで近くに来たので……先生、りんちゃんはお元気ですか?」
唐突な問いに、相良は、ん? と、面食らった様子を見せたが、直ぐに低い声が聞こえた。
「ちょっと夕べ、怪我をしてしまってね。大した怪我ではないのけど」
眩暈を起こしそうだった。
「怪我って……」
「庭が道に面していてね、時々車が弾いた石が飛んで来るのだよ。それが運悪く、庭で遊んでいたりんの額に当たって、小さな擦り傷と痣ができてしまった。本人は驚いて泣き出したけれど、痕も残らないだろう程度の傷だよ。自宅の敷地内だからと油断してはいけないね」
相良は既に、圭の傍まで来ていた。
「市電に乗るのだろう? 駅まで一緒に……」
「いいえ、私は反対方向に……」
「そう。では、門まで……」
校舎を出ると、幾人かの学生が相良に向かって頭を下げて挨拶をした。
「君は子供が好きなのかな?」
「はい。以前は小さな子と関わることはなかったのですが、長瀬さんの姪御さんがまだ小さくて。関わる内に、いつの間にか子供が好きになっていました。子供は無垢で、とても愛らしい……」
「そうだね、子供は可愛らしい。
またりんとも遊んでもらおうかな」
「是非」
りんの可愛らしい笑顔や赤い頬っぺたが思い出される。誰かが守らねば生きていけない、幼い命。
守らなければならない。しかし、どうやって?
門をくぐると、圭は相良に向かって頭を深く下げた。
「それではまた」
優しい声に、答えることができなかった。自分達のせいで幼いりんが巻き込まれようとしている申し訳なさに。
相良の姿が見えなくなると、案の定、江古田が姿を現した。
「謎々は解けたみたいだな」
「林檎は聖書で知恵の実と表されています。
甘味処で隣に座った男が貴方のお仲間だったのですね。
何が目的です? 罪の無い小さな子に危害を加えるなど、最低の所業です」
圭の言葉を、江古田は鼻で笑った。
「目的の為には手段は択ばない。相手が子供であろうとなかろうと、私には関係ないことだ」
「そうでしたね。貴方はそういう人です。
どうすればいいのです? 土下座をしろとでも?」
もし江古田がそう要求するなら、直ぐに地面に這い蹲るつもりでいた。何を要求されようとも、自分に出来ることなら。と。
「それも面白いとは思うけどな」
江古田は圭をじっと見つめると、楽しそうに笑った。
「知らなかったよ、長瀬が弁護士を辞めて探偵なんざ始めてたとはね」
「あちこちの新聞に載りましたから、貴方もそれはご存知だとばかり」
隼人は、探偵は金にならない。と、話を始めるつもりだったが、江古田が、弁護士だと認識していた為に、咄嗟に芝居の台本を書き換えたのだった。
「新聞なんざ読まないよ。下らん事しか書いてないだろう。そんな物に割く時間はない」
「それで、私に何をしろと?」
江古田は、俯く圭の顎に手をやると、自分に向かせた。
「長瀬を殺せ。どんな方法でも構わん。今日から十日以内に殺すんだ。
忠告しておくが、自死をしても私は許さんからな。あの娘に遠慮なく危害を加える。お前が長瀬を殺さなかった罰として。
長瀬を殺した後なら、自死しようがどうしようが自由だ。
お前も帰る場所が無くなるわけだから、私達の組織に入れてやってもいいぞ。これだけ綺麗な坊やなら、色仕掛けで何人でも誑かせそうだからな」
圭は江古田の手を叩いた。
「どうして長瀬さんを?」
「私を陥れた罰だ。
自分の信じる正義を貫いていい気になっているあの男を苦しめるには、お前を遣うのが一番だと気付いたんだよ。
信じている人間に殺される。一番辛い死に方だとは思わないか? その上、華族だったお前を犯罪人にできる。私にとっては一石二鳥だ。
長瀬はさぞかし、苦しみながら息絶えるだろうな」
江古田の恨みの原動力は相良の言った通り、隼人を信じていた為だろうと、今の言葉で理解した。信じていたからこそ、許せないのだ。と。
「どうする? 断るならあの娘が傷付くだけだ。相良のように顔を焼くのも良いな。
命の恩人を守るか、幼い他人の娘を守るか。今すぐ答えを出せ」
答えは、一つだった。命の恩人と言えど、幼い命には代えられない。
江古田一人の犯行であるなら、騙して二人を守ることも可能だろうが、仲間がいる。さっき組織と言ったからには、一人や二人ではあるまい。知惠が会った若い男、甘味処で見た男、少なくとも二人の人間は江古田の命に従っている。隼人の殺害を断れば即、りんに危害が及ぶだろう。
だからと言って、隼人を殺すと嘘を吐いても、犯行を行うまでは見張りが付くのは間違いない。
幼い女の子の顔を焼こうなど、狂気の沙汰であるが、江古田という男はそれをやりかねない。
あの可愛らしい顔が焼け爛れたなら……幼い子供であるから、命を取り留める可能性は低い。取り留めたとしても、その後の人生を考えると、圭には選択肢は無かった。
「長瀬さんを、私が……殺します……」
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