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相馬有朋
「よ、お疲れ」
隼人の友人で新聞記者の中里勇一郎が、珍しく疲れた声を出した。いつもボサボサの髪が、更にあちこちに跳ねている。
「お前も疲れているようだな」
「そりゃそうだ。ずっと走りっぱなしだぜ」
圭が盗み出した書類を警察に持って行き、刑事達の動きを逐一知らせる為に往復をしていたのだから、疲れていないわけはなかった。
「お疲れ様です」
言いながら圭は、手櫛で髪を撫でつけるのに忙しい。
「ほれ、使えよ」
勇一郎は懐から柘植の櫛を取り出すと、圭に渡した。
「ありがとうございます。いつも持ち歩いておいでなのですか?」
「新聞記者ってのは身嗜みに気を遣わなきゃらないない仕事なんだ」
基本的に呆れるくらいあちこちに飛び跳ねている髪の勇一郎しか見たことのないであろう圭は、はぁ。と気のない声を出すと、せっせと髪を梳かすのに忙しい。寝ぐせすらつかない真っすぐな髪は、全くと言っていいほど乱れてはいないが、本人にしてみればみっともない姿をしている意識なのだろう。圭と勇一郎を足して二で割れば丁度良いのかもしれない。
勇一郎の知らぬ部分を詳しく話してやると、ミミズののたくったような文字で帳面に書きつける。話し終えると、感心したように手を打った。
「圭ちゃんの手癖の悪さが大活躍だったんだな」
「誉め言葉と伺っておきましょう」
礼を言って櫛を返すと、圭は手を口に当てて溜息を吐いた。
「まだ調子良くない?」
「どした?」
「無理してお握りを食べたから、吐いたんだよ」
「幾つ?」
「四つです」
「それくらい、朝飯で食う分量だろ」
勇一郎や隼人にはそうであっても、食の細い圭にとっては拷問に近い量だったに違いない。
「まぁ、浮浪児が遠慮がちにちょっとちょっと食べるなんざ、不自然だからな。頑張ったな」
勇一郎に撫でられて、拗ねたような表情を作る。褒められても嬉しそうな表情を作れぬ不器用さが、圭らしかった。
「お疲れさんです」
大森が現れた。こちらも汗を拭い拭い、疲れ切った様子ながら、表情は満足げた。
「いやぁ、お陰ですんなり解決しました。被害に遭う子供が増えんで済みましたよ」
現役の刑事である大森が、隼人に相談に来たのは、今回逮捕された江古田と大学が同じだと知ったからであった。
弁護士時代から親しくしている大森の為に協力することになり、圭や勇一郎も加わった。
内通者から、美しい子供を寝室に連れ込んでいると聞き、圭に浮浪者の振りをさせ、江古田の近くを彷徨かせた。思った通り圭を連れて帰ったのを見届け、直ぐに隼人が訪ねる。
計画では、圭が手洗いに行きたいと申し出る予定であった。そうして、江古田の書斎に忍び込み、この数日間の間に憶えた錠前破りの技で、書類を盗み出し、窓の外に放り出す。
後は、隼人と圭が部屋に閉じ篭もっている間に、窓越しに勇一郎に指示をし、警察に証拠品を持って行かせたのであった。
「長瀬さんが見知った相手だったのは幸いでした」
「あの頃から素行は良くなかったけど、未だに変わっていなかったとはね」
「若気至りで済ましときゃ良かったんですわ。
麻上さん、おかしな真似されませんでしたか?」
「大丈夫です」
「しかし、顔色が良うないような」
「食べ過ぎですので、ご心配なく」
「さて、申し訳ないがこれから、カフェーに行くぜ」
圭がまた、手を口に当てた。
「カフェーに?」
「あぁ。俺の知り合いの知り合いがお前に頼みたいことがあるってんだ。
それがどうやら、相馬有朋に関わるらしくてな」
眉間に皺を寄せていた圭が、目を見開いた。
相馬有朋は、隼人の二学年違いの大学の後輩だった。
慇懃無礼で自信家。他人を嬉戯の駒としか思っていない、罪を犯さぬ犯罪者。美しい容姿と聡明な頭脳の人でなし。いつかはまた対決をしなければなるまいとは思っていたが、早過ぎた。
カフェーで三人を待っていたのは、二十になるかどうかという若い娘と、目元がよく似た二十代半ばらしい男だった。おそらく兄妹なのだろう。娘は不安そうな表情だが、兄は怒っているような様子である。
一番奥の大きめの小卓に五人で腰掛けると、予め注文してくれていたらしく珈琲が運ばれて来た。気の利くことに、圭の前には牛乳入りの冷やし珈琲が置かれている。娘と同じ物だった。
「お呼び建てして申し訳ありません。私は奥井陽介と申します。これは妹の良子。
長瀬様には、相馬有朋というペテン師を見つけて頂きたいと思いまして」
隼人達は挨拶する必要もないらしく、陽介は勝手に話を始める。尖った声に、怒りを感じた。
隼人は勿論、圭も帳面を出して万年筆で要点を書き留める。すっかり探偵助手である。
「一つ伺っても宜しいでしょうか?」
陽介は、どうぞ。と、低い声で答えた。
「どうして私を? 中里から聞きましたら、長瀬隼人を。というご指名だったそうですが」
「相馬有朋をご存知の方の方が良いかと思いまして。
妹から聞きましたが、貴方は相馬有朋の大学時代の親友だったそうで」
「はい」
「相馬が自慢気に申しておったそうです。紅い髪の探偵は俺の後輩だと」
「俺の後輩……」
隼人にしか聞こえないくらい小さな声で、圭が繰り返した。
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