事務所

1/1
前へ
/79ページ
次へ

事務所

 昨日、警察を訪ねて大森に似顔絵を渡したが、少々忙しい為、時間が欲しいとのことだった。他の刑事にも聞いてみるから。と。  「月本銀行の行員であれば、昨日のお嬢さんが千円もの大金を持っていると知っていたはずだ」  月本銀行は、東京を拠点に勢力を広げ始めた銀行である。まだ歴史は浅く、支店数も大銀行に比べるべくもないが、あちらこちらで名前を耳に、目にするようになっていた。  T大学を出たならば大抵は大銀行に入るものだが、これから大きくなるであろう銀行だと考えれば、それなりの人材を集めているだろうし、自らの力で大きくする。と大志を抱いて入行する者もあるだろう。 「そうだとしても、既に仕事は辞めて逃げているでしょうし……」 「まぁそれでも、名前は分かるだろう。  これから月本銀行へ……」  電話が鳴った。用件は、伺いたいとのこと。近くまで来ているそうなので、待っている旨を伝えて切った。  「相馬有朋様をお探し頂けませんでしょうか?」  年齢は四十手前らしい、淑やかそうな、奥様然とした婦人が涙を拭き拭き訴えた。 「その方とのご関係は?」 「将来を約束しておりました。  その……私は十以上年上ではございますが、その……」  本人は気後れしているのだろうか、言い訳がましく言い募る。 「その方のお名前をこちらにお願いします」  やはり、相馬有朋であった。 「容姿を教えて頂けますか?」  すると婦人は不思議そうな表情をした。 「ご存知ではありませんの?」  またか。と思う。 「相馬有朋という人物を、私は存じております。しかし、名前と漢字が同じだからと言って、同一人物と決めつけるわけにはいきません。同姓同名もおりましょうし、騙りもおりましょうから。  因みに、私のことはどう言っておりましたか?」 「この探偵は、俺の後輩だったのだ。と……」  圭の小さな溜息が聞こえた。 「そうですか。  それでは、相馬有朋なる人物の特徴など……」  聞けば、どうやら昨日の似顔絵の男で間違いはなさそうだった。  加えて、喉の辺りに大きめの黒子があると言った。 「ここに包丁を刺せば、確実に殺せる。と、言ったことがあります」 「穏やかではありませんね」 「はい。  私が、相馬様が見知らぬご婦人と歩いておいでなのを見て、誤解して責めたのでございます。そうしたら、シャツを引っ張って、黒子を見せながら……」 「そのご婦人は何方だったのでしょう?」  圭が横から口を挟む。 「妹様でしたの。お若い、相馬様と並ぶに相応しいお年頃のお嬢様だったものですから、私、嫉妬してしまったのですわ」  いかにも自分の責任という言い方ではあるが、納得してはおるまい。そう思わせる口調であった。  内容を要約すると、この婦人は二年前に良人を事故で亡くしており、十五になる娘が一人いる。良人がそれなりの財産を持っていたお陰で生活はできていたのだが、相馬有朋に言われるまま貢ぎ、手元にはもう僅かしか残っていないとのこと。そうしてやはり、仕事で東京を離れるとの手紙が送りつけられて来たのだとか。  良子もそうであったが、怒りは見られず、悲しみに支配されている様子であった。もう暫くすれば現実を見つめ始められるのだろうが、今はまだ、裏切られた事実を受け止めきれず、何か事情があるに違いないと一縷の望みに賭けているように思える。 「もう一つ伺いたいことが。失礼ですが、預金はどちらの銀行に?」 「月本銀行でございます」  圭が、視線だけを隼人に向けた。  婦人が帰った後すぐ、次の依頼人が現れた。  驚いたことにこの日、他に二人の婦人が同じ用件で長瀬萬請負を訪れたのであった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

26人が本棚に入れています
本棚に追加