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言葉にできない気持ちはどのように表現すればいいのだろうとよく考える。
例えば放課後、夕方に1人で教室に居て窓の外から部活の声援が聞こえてくるあの感じと、下校時刻ギリギリに1人で校舎を後にする時のあの感じは、同じ「切ない」だと表現したとしても「全く同じ切なさ」ではない。だが、その2つの感情の間を埋める理論や差を測る物差しなんて到底理解し難い心理の話で、俺何かが知る由もないことなのは分かっている。それでも、その2つの感情も、間を測る「何か」の基準も、どちらも今この瞬間、現実として存在しているのが確かなことであるのならば、何故その曖昧な感情を表現する言葉がこの世に未だ存在していないのだ。
寂しいと淋しい、文面だけで表記分けできたとしても、その感情の違いを口語訳できる技量などそもそも一般人は持ち得ないのだ。そしてそのまま永遠に、口のなかから出てこない言葉を探すために思考回路の海の中に宛のない答えを探しに迷いこむ。
その間、自分は何を探しているのか、どんな答えを見つけられれば終わりなのか、いつその海から上がればいいのか、誰も見通しなどついていなくて、だけどみんなそんなこと考えてもいなくて、要するにこの世界には沢山のいらない言葉が氾濫しているのにその反面どうしても欲しい言葉など永久に辿り着けないという掟がきっとあるのだ。
知らない言葉だって知りたい言葉だって沢山あるのに、知る努力をする人としない人がいて、新しい言葉を作る人と古い言葉を非難する人がいて、そんなこと興味もない人とずっと悩み続ける人がいる。この世界はそんな人たちで覆い尽くされていて、そろそろ満杯になるのではないかと要らない心配もしてみるものの、この心配の捌け口などこの世の何処にも存在しないという悩みが新たに生まれてしまう。
だって「今」という時間は存在しない。
「今この瞬間」そのものは、次の瞬間「今」では無くなり唐突に「過去」となって「今」が流されていく。カメラのフィルムのようにずっと連続で繋がっている細切れの「それ」が「今」だと表現できるのは、自分たちが「今」という瞬間を信じているからではないのだろうか。
人生は用意された分だけの長さがあるものだとしたら、過去を測る物差しと、先の見えない未来を測る物差しとは、一体どちらの価値がより重いのだろうか。大半の人類が「未来」と答えたところで、その「物差しの重さを測る物差し」がこの世に存在しない限りはそんな答えも刹那的な夢にすぎないのだ、ということを。
自分は一体何を求めて、藻抜けの海に飛び込むのか、ということを。
人はなぜ手が二本生えているのか、ということすらも。
俺の目の前をただ通過する顔も名前も知らない沢山の人たちは何も疑問に思わないのだろう、とか。
「なに考えてんの」
「思考の果てはどこにあるのか、とか」
「その果てを考えることに果てがないんだから、違うこと考えなよ」
「…そうだな」
「考えるために言葉があったとしても、その言葉のために考える癖があるから、お前さ、」
「ああ」
「たまには休めよ、もういいじゃん」
息の詰まりそうな言葉の山の中で溺れていても、どうせ答えなんかでないんだ、と。
「…ありがとう」
「うん」
その時やっと肩の荷が降りたような気がしたんだけれども、じゃあ今この瞬間のこの感情の名前は、一体何なんだろう、なんて。
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