泥濘ランデブー

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クローンなんじゃないか。そう思うことがたまにあった。鏡越しに同じ大きさの掌を合わせるたびにゾッとする。おかしいんだ。自分がきっと偽物で、この掌が境目で、その向こう側が鏡の国で主人公の俺なんだ。気持ち悪い、でも心地よい。泥濘に足を覆われている気分だった。心が麻痺している。いつかはこの腰まで、喉元まで、このぬるい暖かさに包まれて腐って死んでいくのだろう。腐敗した身体でも彼は愛してくれるのだろうか。できれば灰に燃やし尽くして、この世にいなかったことにして欲しい。路地裏の使い物にならなそうなポリバケツに撒いてくれればいい。猫たちの排泄場になればいい。 「何食ってるんだ?」 「うどん」 「俺も食べるか…」 どんなに腐っても腹は減る。死ぬことばかり考えているのに生きるために地球上のイキモノを殺して食っている。酷く味気ない。匂いばかりが部屋に充満する。生の匂いだ。くらくらする。 この匂いに釣られて、先に寝ていた恋人が起きたようだ。薄明りの中でも目を細めてキツそうだ。こいつは一度寝ればいつもは中々起きないほど熟睡するのに珍しい。寝室の扉は閉めたはずなのに。束の間の死の部屋と、永遠に続く生の部屋。ああ、早くあちらに戻りたい。そうは言っても空腹を満たすことが最優先だった。それに、寝室に戻ってもさっきまでいた彼の肉片の温もりが辛いだけだった。この頃、人の寝息が酷く気に障る。 「最近、ちゃんと食ってるか?」 「食ってるだろ。余計なお世話だ」 「そうか、ならいいんだ」 「…なんなの」 自分を肯定できる人間が嫌いだ。気持ち悪い。俺は今動かしている舌を今にも噛み切りたいと思っているのに。おかしいじゃないか。俺はクローンだろ。俺と暮らしてるお前だってきっとクローンだろ、俺と同じでこんな気持ちにもなるだろう。 「夜は、眠れてるのか」 「寝てんじゃん。なんなのさっきから」 「すまない」 「焼け死ね」 昔別れ話が出た時に、別れるなら俺はお前の前で死んでやるとほざかれた。あの時あのまま死ねばよかったのに。そうしたら、心置きなく、俺だって 「先に寝に行ってていいぞ」 「…なんなの」 どうして、どうして俺はクローンなのに、お前は俺じゃないの。熱を帯びた喉が悲鳴を上げる。水が視界を襲いだす。今夜の月は死んでいる。暗闇の中でも猫は眠る。俺には家も食事もある。全部投げ捨てたい。でも逃げ出すところがない。本当は行くあて何てなくてもいいはずなのに、何故身体は生きることへの執着をやめない。苦しいだけじゃないか。 「もう少し、ここでゆっくりするか」 「ねえ」 お前を人間だなんて認めない。俺よりほんの数日先に頭が外の空気に触れただけだろう、俺が暖かい羊水から出られないで居るときに、なんで世界を先に求めたんだ。 その時から、こんなにも違う。同い年なのに、こんなにも境遇は同じなのに。 「一生、俺のそばに居るつもりなの」 「ああ。ずっと見ていたい」 「俺が死んじゃっても」 「そうだなあ。この家にいたいなあ」 「世界の、ほかの皆が死んじゃっても」 「俺の家はここしかないからなあ」 「俺が、俺が先に」 「あのな、ダイキ」 鼻で息ができないでいる、それにも拘わらず肺は酸素を求め続ける。このまま口を閉じれば死んでしまえるのに、こいつの目に俺を焼き付けられるのに。殺してくれ、殺させてくれ。先に死んだ方が偽物で、残った方が本物だろ。本物の世界で楽しく暮らせばいいじゃないか。 「俺は、お前と一緒に居たいんだ」 俺とほぼ同じ大きさの掌にゾッとする。ゾッとしているのに温かい。悔しい。こんなことで安堵してしまう自分が悔しい。どうしてお前は全てを吸い取っていくんだ。この気持ちすら吸い取られたら、俺にはなにも残らないじゃないか。空っぽのクローンはお前もだろ、俺はもとから何にもないんだ、これ以上空っぽにさせないでくれ。 どんなに歯を食いしばっても水は溢れ出すし、時計の針は進む。止まれと念じたとしても、届かない思いの方が遥かに多い。こんな世の中に、どうして同じ世界に生まれてきたの。 どうして、人間の胎内から生まれてしまったの。 「…死ね」 「一緒に死のうな。できれば笑顔で行きたいもんだ」 手から全身へ、彼の温もりが広まっていく。闇に凍えていた身体が解けても、心は空っぽのままだった。 寝ても寝ても死の淵へは辿りつけないし、毎日腹は減る一方で、目の前には微笑んだ恋人がいる。全てを吸い尽くされていく。足が思い通りに動くようになる。 「行こうか」 ほんの数歩先の寝室までのランデブーでも、心中のような道のりで、それでもその足取りは、数時間後に昇る太陽を待ちわびたものだった。 こいつが吸い尽くせなくなったその時が、たぶん旅立ち日和なのだろう。彼があとどれ程俺の偽物の部分を吸い取れるのかは検討がつかない、途方もない道のりに思えた。 思えば、最初から負け戦なのだった。鏡の向こうの自分も自分であり、どちらも本物なのだから。本物が偽物から歪んだ部分を吸い取ったって、お互いに本物になるだけなのだから。 月は死んだ。太陽も遥か未来には死ぬ。それまでには必ず自分たちも灰になる。この途方もない道のりを、人間の胎内から出てきた俺たちの部屋までの道のりを、ただ手を繋いでいられればいい。 「俺、ダイキの手が好きだぜ」 「…俺もだよ」 隣から伝わる温もりと呼吸は、また僕の泥濘を1cm引き上げる。
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