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心が穢れていると、恥を感じなくなる。子供が良く恥ずかしがるのは未熟な段階にあるのもあるが、心がまだ穢れていないからだ。が、成人になってから不道徳なことをしていても、その最中は恥じることがあっても普段は恥じることなく恬然と、または堂々としていられるのは心が穢れているからだ。汚職を重ねる政治家や醜態を晒し続けるAV女優などは、その最たるものだ。
恥の文化が廃れ、破廉恥な人間が多くなった。別に世間ずれしていなくても厚顔無恥な輩がだ。逆に心が清らかで恥を知る心が強い人間、つまり廉恥な人間は今や希少だ。その一人、と言っても自分では意識していないが、徳永章子という女性がいた。彼女は講習を申し込んで来る各家庭に出張レッスンしに行くスタイルのピアノ講師のアルバイトをしている。歳は二十歳で家事手伝いを兼ねて花嫁修業中だ。
心同様見た目も綺麗だから当然、中学高校時代、男子生徒の注目の的または垂涎の的だったが、初心な儘、育ち、羞恥心と潔癖さから時に異性を避ける程だったし、これはという者もいなかったから恋をしたことがなく告白されても悉く断って来た。
そんな彼女が今度、出張レッスンしに行った所は、なんと有名な小説家の邸だった。ペンネームは本名通り石森富士夫と言って歳は三十五、妻の晃代は二十五、一人娘の富士子は五つだった。
毎週水曜日と金曜日に45分のレッスンを章子から受けた富士子は、父に似て利発で呑み込みが早いから、めきめき上達した。
レッスン中、大抵、晃代が傍で見守っていたが、或る金曜日、晃代が友達たちと女子会パーティーをする為、出かけて留守の時、富士夫が見守ることになった。彼はこれまで書斎で読書したり小説を執筆したりしている時に見本を見せる為、奏でる章子の美しい心の表れのような調べが聴こえて来る度に心を惹きつけられていたし、視覚的にも章子は美しいから目と耳で彼女の魅力をダイレクトに感じてしまった。
彼は丁年の前から浮名を流して来た男で二十代の頃は何人もの愛人と付き合っていたが、後顧の憂いが無いよう子供が出来たのを潮に漸う三十の時に晃代と落ち着いた経歴の持ち主であるだけに章子を見る目が明らかに危険な色を宿していた。何しろ彼女は富士夫が今まで付き合って来た女の誰にも似つかない性質を持っているのだ。それはつまり一言で言えば、清らかということであって今まで渇望しても得がたいものなのであった。
クリシェな比喩だが、正に白魚と呼ぶにふさわしい五指がなんとしなやかに動く事か!それは可憐であり華麗であって、それを見るだけでうっとりしてしまう。富士夫は実子の前で本当に恋してしまいそうになるのであった。
そうとは知らず富士子にレッスンしている時、章子が純真な心を絵に描いたような笑顔で自分のことのように喜んで富士夫に言った。
「富士子ちゃんは本当に才能豊かですわ。教え甲斐があって私もとても嬉しくなります!」
「そうですか。それは有難い事だ。」本当に有難そうだった。それは章子と接しられるから有難いと言っているようなものだった。「富士子、何か得意なのをお父さんの為に弾いてみてくれないかな。」
富士子が頷いてからシューベルトの「野ばら」を弾き出すと、その可愛らしいメロディに富士夫と章子は顔を見合わせ、目を細めて喜ぶのだった。その時、富士夫の心に或るものが芽生えた。それは平穏な日常を壊す切っ掛けに成り得るものに違いなかった。
「あの、徳永さんは僕の小説を読んだことがありますか?」と突然、富士夫は訊いてみた。彼としても全く不意に出た言葉だった。何か踏み入る切っ掛けが無性に欲しかった心の表れだ。
「ええ、私、元々読書が好きですから先生の作品も何度も読ませてもらいました。」
「はあ、そうですか。それは嬉しい事だ。何を読みました?」
章子の返答は中々期待に応えるものがあった。ある部分では核心を突いているから話し甲斐があると富士夫は思った。彼は話が弾みそうなのでレッスンが終わった後、出来れば、お茶したかったが、流石に富士子独り残して行く訳にはいかなかった。そこで予定がないなら応接間でお話しがてらコーヒーでも飲みませんか?と彼女を誘ってみた。
章子は予定がなかったが、帰りが遅くなってしまいそうなので躊躇すると、ほんの一時間ばかしでいいですからと富士夫が言うので、それならとOKした。
話は実際、弾んだ。文学の話で盛り上がることは晃代とでは有り得ないことだったので、晃代にはない教養の高さを章子に感じた富士夫は、一方ならず惚れ込むのだった。そんな折、鳩時計の鳩の模型が出て来てハッポハッポと鳴いた後、オルゴールが鳴って午後9時を知らせると、富士夫はまだ晃代が帰って来るまで2時間以上はあるので時間延長したくなり、そう要望してみると、章子は応じたかったものの親が心配するから、門限が10時だからと丁重に断った。
で、晃代がいないこの隙に何とかしたかったし、今度の日曜日に何も予定が無かった富士夫は、富士山に肖って親に名付けられ、富士山を愛し、静岡市に住んでいる所以から富士山を眺めながら章子と話したい願望を抱いていたので駿河湾フェリーを利用しようと思いつき、その旨を伝えた。
すると彼を偉大な文豪として信頼しているらしく彼女がOKしてくれたので富士夫は午前11時に清水港近くのマクドナルドで待ち合わせる約束を彼女と交わした。それからマイカーで真っすぐ親元に帰るらしい章子を見送った富士夫は、今時、珍しい子だ、門限が10時というのも今時、珍しい家だと思った。
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