ゆめうつつの境界線

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土曜日の放課後など早く家に帰ればいいものを、読書を口実に居残ってしまうのは、新しく部長になってまだ間もない後輩を少し心配してのことだった。冬の練習はキツいと言ってサボり出す生徒もいる中、後輩達に基礎連を指導する彼を時折視界に入れながら、岩井は進まないページに何度も指を滑らせていた。 部活が終わり、長瀬が汗を拭きながら岩井の元へやって来たのはそれから2時間後のことだった。陽が落ちるのもすっかり早くなり、寒さも日を追う毎に増してきている。岩井が土曜日にこっそり自分を待つ場所を長瀬が知ったのは、秋が終わりかけていた頃だ。 「お待たせしました、岩井部長」 「もう部長じゃねえよ」 「すいません。じゃあ、岩井さん」 「何だよ」 「岩井さんは、昨日、どんな夢を見ましたか」 いきなり何を言い出すのかと思えば、部活や岩井の手の中にある本にはかすりもしないことだった。岩井は少し拍子抜けしたが、目線を窓の外へ向けつつ昨夜の夢のことを思い出そうとした。新入部員がまだボールを片付けているようだ。長瀬が部長になってからは大して部活のことは話さない。彼は彼のやり方でやる、そこに自分の意見を強要するのは間違っているように思えた。コーチもいることだし、相談されたり余りにも目につくことがあったりしない限り、二人の間にはいつも他愛のない話題ばかりがのぼった。 「夢か…覚えてないな。昨日は熟睡だった」 「そうですか。じゃあ、その前は」 何故、長瀬は夢のことなど聞いてくるのだろう。普段は現実主義ともいえるやつなのに。 「覚えてねえよ。昔の夢なんかいちいち覚えてられるか」 「俺は覚えてますよ。皮肉にもあなたが出てきたので」 「…へえ?」 「金髪に染める夢でしたあんな夢みるくらいなら眠らなきゃよかった胸くそ悪い」 「てめぇ」 「岩井さんは…」 「岩井さんはないんですか、何か俺の夢を見たことは」 「…ねーな、生憎」 「そうですか」 夢とは現実を映す鏡の様なものだ。脳が記憶の整理をしている、と言われているが、古来から日本では、夢に現れた相手に想いを寄せている証拠とされている。もっとも昔は、夢に現れた相手が自分のことを想っている表れだ、と逆の解釈をされていたが、どちらにしろ自分の眠りはいつもそれほど浅い方ではないので、長瀬の期待に応えることはできないようだ。何となくがっかりした表情を見せる長瀬に少し罪悪感のようなものを覚える一方、彼が何を言い出すのか口に弧を描き楽しみにする自分がいた。 「…何でそんなことを聞くんだ?」 「…ふと思ったんです。現実と夢の区別をはっきりと証明するものを、俺は…」 持ってないんです、だか、知らないんです、だか、長瀬がどちらを呟いたかよく分からなかった。後半、声を小さく窄めもごもごと口の中で呟きながら少し顔を背けたところを見ると、メルヘンチックな事をかなり真面目に言ってしまったことに気付き、流石に恥ずかしくなったのだろう。岩井は開きっぱなしだった本をぱたんと閉じた。 「長瀬、授業で漢文でもやったか」 「…よく、わかりましたね。まだやっていない話なので詳しくはわかりませんが…古典の教師に恐らくその内容の話をされて」 「この世界が、本当に現実に実在する世界なのか、誰かの夢の中の世界なのではないか、って話だろ」 だって、じゃあ岩井さん証明して下さい、ここは貴方の夢の中ではないって確証はありますか。長瀬はそう言い付けたい自分を抑えた。冷静さに欠ける程、自分はこのような馬鹿げた話を本気で信じているのか。恥ずかしい反面、一度追究してしまったものは最後まで追求してしまいたいとも思っている。 岩井は「長瀬の夢は見たことがない」と言った。忘れているだけかもしれないし、俺の反応が見たくてわざと言ったのかもしれない、或いは面倒臭くて嘘をついたのかもしれない。それは解らない。しかし本当ならば、何故自分ばかり、もしこれが貴方の夢の中ならばおあいこじゃないですか。自分ばかり貴方を想っているみたいで癪に障る、そう面と向かって言えたらどんなにか楽だっただろう。長瀬は無意識に力んでいた肩の力を抜き、代わりに何も含まないただのため息を溢した。 「…長瀬。別にここが誰かの夢の中だったとしても俺は構わねぇ。何か問題あるか」 「…それで片付けたら本末転倒な気がして、」 「じゃあはっきりと言う。ここは実在する、誰の夢の中でも無い唯一無二の本物の世界だ。俺がいて、お前がいて、二人とも同じことを考えている」 「…じゃあ、これが夢じゃないってことを証明してください」 「ああ、いいぜ」 岩井は長瀬の方に向き直って、両手を広げた。 長瀬は自分の足がしっかりと床を踏みしめているのを実感しながら三歩進み、広げられた胸の中へと飛び込んだ。 夢の中からやっと出られたような、ずっと胸につかえていた何かが消されていく感覚に、温もりの中で長瀬は笑ったのだった。
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