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「…君はずっと、お父さんがいなくて寂しかったんだろう?…なってあげようか?私が君のお父さんに」
何を言われたのかわからなかった。
“頭の中が真っ白になった”というべきか“目の前が真っ暗だ”というべきか――どちらだろう。両方かもしれない。
ここは僕の勤務先の社長室で、目の前に居るのは社長の喜熨斗。
それはわかっているが、冒頭の台詞によって僕は著しく冷静さを欠いていた。
彼に目をかけられたのか僕はやたらと気に入られていて、新入社員であるにも関わらず何度もここに来ている。
業務のためというよりは彼の個人的興味で、何かと理由をつけては呼び付けられていた。
ある目的があったのでそれは好都合だったが、親密な付き合いを求められるのはとても不快で、それでもなんとか耐えてここ数か月を過ごした。
そうだ、僕は真実を知りたくてこの人に近付いた。その理由は――
「…ひどいなぁ、痛いじゃないか…」
顔を上げると、喜熨斗は自分の右頬を押さえながら悲しみとも怒りともつかないよくわからない表情を浮かべていた。
さっと血の気が引くのを感じる。頭で考えるより先に殴ってしまった。
人に手を上げたのは生まれて初めてだ。殴り合いの喧嘩なんてしたことがないし、僕は気性が穏やかな方だと思っていた。
目を見開いて手のひらを凝視する。身体が自分の意思に反して動いた感覚で、背筋に冷たいものが走る。恐ろしい感覚だった。
「…申し訳ございません」
どういう理由にせよ、殴ったことは不味かった。すぐに謝罪すると妙なことに、喜熨斗は驚いた様子ではあるものの一向に怒る様子が無い。
「ですが冗談でも言って良いことと悪いことがあります」
寒気がする。これ以上この場に居たくなかった。僕は喜熨斗から離れ、扉のほうへ向かいながら考える。
勤め先の社長を殴ってしまったんだ――クビになるどころか、訴えられるか、下手すると警察を呼ばれるか。馬鹿なことをしてしまった。
これでもう、真相に近付くことはできないかもしれない。
「北沢くん、待ちたまえ――冗談で言ってるのではないよ。本当にそうしてあげたいと思った!」
喜熨斗は後ろからついてきて食い下がるが、振り向かなかったのでその表情は窺えない。
――そうして“あげたい”?怒りで指先が冷え切っていくのがわかって、拳を強く握りしめながら喜熨斗に向き直る。
僕がいきなり振り返ったので驚いたのか、少し後ずさった間抜けな貌を真っ直ぐ見据えた。
「喜熨斗さん、あなたは――あなたは僕の父を殺した」
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