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翌週の、週半ばだっただろうか。残業して遅い時間にマンションに帰り着くと、エントランスに見覚えのある黒いパーカーの男が立っているのが見えた。
正直、面倒くさいという気持ちしかなかった。でも、もうきっと彼の視界には入ってしまってる。こちらを見て頭を下げたのだ。まさかここで、くるりと踵を返すわけにはいかない。
「あの、この前はありがとうございました」
「どういたしまして。少しは役立った?」
「はい、おかげさまで。で、今日は少しなんですがお金、返そうと思って待ってました」
「……え?」
律儀だなぁ、と思いつつもこういうのも手段の一つではないかと勘繰る。今時の若い男の子……いや、若い男の子ではなくても、よく知らない相手は警戒しすぎるくらいがちょうど良い。
「返さなくてよかったのに」
「友達の紹介で仕事が決まって、給料前借りできたんです。だから」
差し出された手には、千円札が二枚、綺麗に折り畳まれた状態で乗っていた。
「少しずつで悪いんですが、絶対返しますんで」
「気にしなくていいのに」
「いいえ、ケジメですから」
彼はそう言うとペコリ、と頭を下げて、あ、と何かを思い出したかのように言った。
「まだ名乗ってなくてすみません。僕、河原一真と言います」
目が、あなたは? と言うように問いかける。わたしは思わず自分の名前を言ってしまった。
「篠井美彩、です」
篠井さん、と彼の口が動く。何度もわたしの名前を、その舌先で転がすように呟く。と、彼はわたしに深々と頭を下げると、潔く踵を返し走っていってしまった。
正直、勘繰ってしまった自分が恥ずかしくなるような、潔さだった。
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