プロローグ

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プロローグ

 球が空に放たれた。  その一瞬は、世界がスローモーションになる。  青空も、白雲も、そこに混じる黄色い球も全部ぜんぶキラキラして、この瞬間は、世界のすべてが自分のものみたい。  肩、腕、指先。  すべての神経が目と腕に集中して、高まる緊張感を吐き出すように、打つ。  時が、世界が動き出す。  ここからはもう止まらない。ドキドキもときめきも不安も恐怖も、すべてが綯交ぜとなって、まるで恋してるよう。   『ゲームセット ウォンバイ────』  ────。  やっと出やがった、と。  電話口の声は開口一番、こちらを責め立てた。空港のプライベートラウンジにて携帯電話の機内モードを外した瞬間、たて続けに入ってきた着信通知は六件。暇なヤローだ、と舌打ちをした矢先に七度目の着信がきたのである。  うるせえな、とすこし不機嫌な声で返した。 「フライト中だったんだからしょうがねーだろ。アメリカから日本まで何時間かかるとおもってんだ」 『ああ』電話口の声はけろりと機嫌をなおした。 『ニュース見たぜ。怪我したって、おまえらしくねーな。でもおまえなら自家用ジェットとか使って帰ってきそうなもんだけど、公共交通機関使ったのか。ウケる』 「ウケねーよ。そんなこと言うために七回も電話かけてきたのか」  切るぞ、と怒気を込めてつぶやくと、向こうの声は慌てたように待て待て、と言った。 『おまえ怪我して暇になったんだろ。このあいだ電話で話した件、どうだ。その気にならん?』 「だれが暇だよ。リハビリだトレーニングだで暇なしだ。不便なからだで日々過ごすだけでもダリィのに──」 『でも話を聞くくらいの時間はあるだろ。こっちの相談元、谷って大学の後輩なんだけどよ。話だけでも聞いてくれよ。ずいぶん参っちまってて』 「テメーがなんとかしてやりゃあいいだろ」 『それが出来ねえから頼んでんじゃねーかッ。とにかく、今日の夜に飲む約束してるから──ぜってー来いよ。ちなみに、場所はおまえのマンションのバーラウンジにするから、来なかったら部屋に押し掛けるからな。それが嫌ならバーまで上がってこい』 「……仕方ねーな」 『わはは。それでこそ我らが永遠の部長様だ! じゃな、また連絡する』  電話はあわただしく切られた。  大神謙吾は忌々しげに携帯電話を見つめ、ふたたび舌打ちをする。 (見舞いの一言もなしに、図々しいヤローだ)  年々図々しさに拍車がかかってきやがる、とぼやいて大神はスーツの上から左膝をさする。左膝から足首近くまで巻かれたサラシ包帯が窮屈で、大神の機嫌はさらにわるくなった。  謙吾様、と初老の男が駆けてくる。 「お車の用意ができました。車椅子は──」 「いい、杖つきゃ歩ける。荷物だけ頼む」 「承知しました。……」  おいたわしや、と瞳を潤ませて男──橋倉は縦に長い大神のスーツケースを手にとった。  ────。  やっとなんですね、と。  谷遥香は電話越しにペコペコと頭を下げた。ここ数日ほど遥香の頭を悩ませていた事態を、確実に打開することができる人材の紹介が確約された、と大学の先輩である倉持からの連絡であった。  そいつの名前を聞いたらおどろくぞ、なんて笑いながら、今夜の会合場所が都心赤坂の高級タワマンバーラウンジを指定してきたものだから、驚いて職員室のなかでひっくり返ってしまった。 「たたた、タワマンッ……」 『ちーっと高くつく奴なんだ。でもまあ、昔のよしみで頼み込んでみる。谷の話を聞けばあいつもはあそうですかなんて流せねえハズだからよ』 「で、でもそんな方──わたし怖いんですけど」 『悪いようにはならねえって。ただちょっと』  電話の奥で、倉持が口ごもる。 「ちょっと?」 『いやなんでもない。とにかく、そっちのリミットは明日だろ。早いとこ良い方向にカタつけちまおう』 「は、はい。……」  失礼しますと言って電話を切った遥香の表情は昏い。休日出勤で出てきた職員室に人影はなく、胸のなかに迫る不安を鎮めようと意味もなく歩きまわった。大学時代の先輩である倉持のことは信頼している。彼が大丈夫というのなら、本気でなんとかできるような人間を連れてきてくれるのだろう。  窓辺から見えるテニスコートが、さらに胸を重くする。十面に連なるりっぱなコートのうち、ボールを打つ生徒はたったのふたり。 「桜爛の女神様、どうか、どうか……」  ──桜爛大附テニス部をお守りください。  遥香は胸の前で、祈るように手を組んだ。
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