月をあおぐ

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 おめでとうって、言ってあげるべきなんだと僕は思った。  ひどい離人感。  幽体離脱した気分。  ほんとうの僕は公園の入り口に立ってて、小山の上の僕たちふたりを眺めているような、気がする。  まず最初に、強烈に羨ましかった。  就職活動の不毛な消耗から、見事脱出に成功した穂乃ちゃんのことが。  僕は穂乃ちゃんの小さな背中を見下ろす。  そして思う。  僕が去っていくこの土地に穂乃ちゃんは取り残される。  いつか誰かと、あの長い名前のマンションに住むのだろうか。  大学病院で出産しちゃったり、するんだろうか。  思い出だらけのこの公園や図書館やコンビニに、子どもを連れて行ったりするのだろうか。  そんな光景はグロテスクに思えた。  いつまでも、爪先に穴の空きかけたスニーカーを履いたりしないだろう。  コンビニのソフトクリームを夜中に食べたりしない、まともな大人になる。  まともなレストランだか、夜景の見える場所だとかでプロポーズされるのかな。  こんな、はげやまみたいな場所じゃなくてさ。  自販機の前で、慌てて好きですとか、言われたことなんて忘れちゃうのかな。  穂乃ちゃんが立ち上がった。  僕は彼女の顔を見るのが躊躇われた。  だけど、立ち上がった穂乃ちゃんの顔は、何よりも愛おしく思えた。  穂乃ちゃんはこんな顔をした子だった。  世界の全てを警戒して、唇を固く結んで。  月をにらみつける瞳から涙が湧き出している。  涙と鼻水と涙と。  穂乃ちゃんは靴下のままで立ち上がって、僕のTシャツで顔を拭いた。 「律ちゃん、次は扇をやろうか。」
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