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撮影開始の前夜。ジュンペイのコンディションは最高といっても差し支えなかった。彼は、常に『向井ヒロト』に向き合い続け、人を避け、部屋にこもり、己の精神をすり減らし続けた。
あのSNSに投稿された画像より、より卓越した姿へと変貌を遂げた。
鏡を見ればそこには向井ヒロトがいた。口から出る言葉は弱弱しく覇気はなく、喉から絞り出すように必死。
もはや、完璧に等しかった。
しかし、ジュンペイであった。
話す言葉は、脚本に書かれていることをそれっぽく意識して読む。動作も、それっぽさを意識する。
常に意識を絶やさず、一挙手一投足にヒロトを宿す。しかし、それは紛れもなく、ジュンペイの意志であった。
ごく当たり前のことである。人は他人にはなれない。朝目が覚めると、別人の体に乗り移っていたなんて物語はファンタジーだ。
しかし、ジュンペイはどこかネジが外れてしまっていた。彼は本当に向井ヒロトになろうとしていた。
彼は、ヒロトに、ヒロトを介した夢物語に、憧れてしまったのだ。
家族に愛されて育つこと、人生に挫折すること、他人にまで不幸をばら撒いたことに心を痛め己の意志で人生に幕を下ろす。その自我に。
その憧れこそ、ジュンペイが初めて宿した『自我』でもあった。向井ヒロトになること。心も体も、すべてをこのキャラクターにささげたい。
自分は過去両親から溺愛されていた。
自分は学生時代にサッカー部に入り、恥ずかしいほどの恋をした。
大学では遊びを覚え、たびたび馬鹿をやって夜を明かす。
仕事でうまくいかず、悩める中で運命の人と出会い、立ち直り、理不尽を受け入れて、毎日を生きた。
その果てに、気づけば心が擦り切れて、手が震えて、人前でうまく歩くことができなくなった。
意識すればするほど、ぎこちなくなり息がうまくできずに倒れてしまう。
そこからこの物語が始まるんだ。
この『物語が始まる前』の大半はジュンペイの妄想であったが、もうすでに向井ヒロトの人生として昇華されつつある。
最後に、ジュンペイはヒロトであることの意識を捨てた。それは、自転車の補助輪をとるようなものであり、歯の矯正を外す様なものでもあり、松葉杖を捨てることでもあった。
部屋の中に、麻のロープでいかにもなオブジェを作る。物語の中でのヒロトの自殺は、睡眠薬の過剰摂取によるものだ。故にこのオブジェは岸本ジュンペイを殺すためのもの。
そのオブジェの前で、ジュンペイは一人黙々と脚本を読み進めた。
自分の中で湧き出る感情に従い、あるがままを吐き出す。それはもはや『演じる』とは言えない代物であった。
この夜。起こってはいけないことが起きてしまったのだ。一人の人間が完全に別の人間に変わってしまう。そんな恐怖。
岸本ジュンペイはどこか遠くに行ってしまった。無を吊るした麻のロープに影が差した。
ここに向井ヒロトが降臨したわけではない。創作のキャラクターを引っ張り出すなんて不可能な行為である。
生まれてしまったのは『向井ヒロト』を自称する何かだ。実際には起こりえなかった記憶を持ち、書面には記載不可能な経歴を持つ。
実在しない家族に愛されて育ち、起こってもいない不幸に心をすり減らした。
嘘の塊。
それは人間の革命であった。決して他人になることができない世界の常識をぶち壊した夜だった。
そして、世界の常識の元、夜は明けて、ナニカは、向井ヒロトのまま、当たり前のように撮影現場に向かった。
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