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バフォメットの憂鬱
行きつけの「がっつり飲めるけど、料理がおいしいお店」よりも、数ランク上の店の片隅で、アイ子はアンニュイなため息をついた。
気後れしているわけではない。
こういう場所は接待でよく使うし、まあ、つき合う相手によっては、連れてきてもらうこともあるから。
「アイ子って、本気で人を好きになったことないでしょう」
幼馴染からそう言われたときには、萌黄のクセに生意気なと思ったけれど。
まあ、中らずと雖も遠からずだ。
つき合ってきた相手には、それなりに情があると思っていた。
けれど、萌黄と羊介を見ていれば、それはシャボン玉のように軽くて儚いものだったと思い知ってしまう。
もちろん、あんなに一途で純情な関係は自分には似合わないし、欲しいとも思わないけれど。
「あんだけ待つのも待たれるのも、重いよねぇ」
「それで、アイ子ちゃんはコロコロ相手を変えるのかい?」
「げぇ」
「待ち合わせ相手に、第一声がそれ?」
余裕な笑顔を浮かべた美丈夫が、さりげないながらも洗練された仕草で、アイ子の隣に腰掛けた。
「お待たせ。夕飯は?」
「今夜は接待だって言いましたよね。そのあとでいいからって、強引に約束したの、誰ですか」
「誰だろう。アイ子ちゃんに強引な態度に出られる人間なんて、いるだろうか」
「いますねっ。世界にひとりだけいますね!」
アイ子の瞳がきつくなっても、美丈夫千草の笑みは深まるばかりだ。
「世界にひとりだけ、か。熱烈なセリフをありがとう」
「熱烈に嫌がってんですけど」
「それは光栄だ。好きの対義語は無関心。熱烈に冷たいということは、それだけ僕にとらわれている、ということだから」
「千兄が強引に捕まえてるクセに」
「そうだよ」
千草の笑顔が、壮絶に美しくなった。
「僕が、君を手放すはずがないからね」
「はぁ、そうですか。んで?」
ここは五つ星ホテル。
そのラウンジバーの耳目を一心に集めている男の笑顔にも、アイ子のシラケたような態度は変わらない。
「あのふたりなら仲良くやってますよ。知ってますよね?」
「知りはしないよ。萌黄が一人暮らしを始めてから、ほとんど会っていないし」
「でも、毎日連絡は入れてるんでしょ、千兄のことだから」
からかう目をしたアイ子の前に、メッセージアプリを起動させた千草のスマートフォンが置かれた。
『元気でやっている?』
『元気です』
『困っていることがあったら、すぐに言うんだよ』
『ありません』
「くはっ、くははははっ」
場に遠慮して抑えてはいるが、特徴的なアイ子の笑い声が響く。
「なんですか、この業務連絡みたいなの」
「そうなんだよ。……ああ、ボウモアを。アイ子ちゃんは?ジントニックおかわり?」
「ギムレットで。さっさと帰りたいんで」
「ギムレットには早すぎるんじゃないか?」
「あたしたちの間に、友情なんてありましたっけ」
「ふぅん?じゃあ、僕たちの関係はなんだろうね」
「さあ」
アイ子は肩をすくめて、シェーカーを振るバーテンダーを眺めた。
「魔王と子分?あと、先に言っておきますけど、萌黄とのメッセージアプリのスクショとか送りませんよ。犯罪の片棒は担ぎません」
「そこまで頼むつもりは、……それほどなかったよ」
「少しはあったんかいっ!」
「はははっ!僕にツッコミを入れるなんて、アイ子ちゃんくらいだなあ」
「まあ、怖くてできないですよね。魔王相手じゃ。それで」
運ばれてきたカクテルグラスに、アイ子は指を添える。
「ご依頼ごとはなんでしょう」
「いや、べつに」
「は?」
まじまじと美丈夫を見上げるアイ子の瞳が、丸くなった。
「週末でもないこのクソ忙しいときに、意味もなく、あたしは呼び出されたんですか?」
「用事があるなんて、僕は一言も言っていないけれど」
「ぐ……」
喉を詰まらせたアイ子が、ぐぃっとグラスをあおる。
「そ、うですけど」
「萌黄は幸せになれる相手を見つけた」
ふと自分のグラスに目を落とした千草が、寂しそうに笑った。
「本当によかったと思っているよ。羊介くんはイイコだ。なにより、萌黄がぞっこんだからね。守ってやらなければとばかり思っていたけれど、守りたい相手を得て初めて、萌黄は強くなるタイプだったみたいだ」
「そうですね……」
千草から視線を外して、アイ子はまっすぐに前を向く。
「メーちゃんのためなら萌黄は怒りますし、彼の前では泣けるみたいです。彼が小さいころから知っているから、構えずにいられるみたいですね」
グラスのふちをすいっと指でなぞるアイ子に、千草と同じ笑顔が浮かんだ。
「高校のころ、萌黄がジュニアクラスでクロールを習うって言ったときには、なんでぇ?って、思いましたけど」
「出会いはどこにあるか、わからないね」
「本当に」
横目を交わし合ったふたりが、クスリと笑う。
「さて、寂しいのは少しは紛れましたか?もうホントに帰ります。萌黄に関してお役に立てることは、これ以上はないと思うんで」
「頼みたいことなんて、本当にないよ。アイ子ちゃんと飲みたいと思っただけだから」
「はぁ?」
「なに言ってんだ、このオヤジって顔だね」
「オヤジとは思いませんでしたよ、さすがに」
「なに言ってんだは、否定しないんだ」
「まんまですから」
「本音だけど」
「へー、千兄って、本音言うんですか、他人に。キャラ変?」
「照れるね」
「ほめてないです」
「君、お付き合いしてる人はいないよね、今」
「いませんけど、それが?」
「恋情を求めてつき合うタイプでもないよね」
「そうですけど、それが?」
アイ子の眉間に、深いシワがきざまれた。
「ならば、僕でもいいんじゃないかと思って」
「はあっ?!なに言ってんだ、この魔王」
「本音が駄々もれ」
「もれもしますよっ」
「どうだろう」
「お断りです!」
「おかしいなあ、これでも僕、結構モテるけれど」
「あたしだって、そこそこモテますよっ!」
「だろうね。アイ子ちゃんはおかしいからね」
「ちょ、そこはきれいだとかカワイイじゃないですか?おかしいって、おかしいでしょ」
「僕の最大級のほめ言葉だよ」
千草の長い腕がアイ子の小さな肩を引き寄せ、胸に閉じ込める。
「きれいな人もカワイイ人も山ほどいるけれど、君くらい、僕を楽しませてくれる人は、いないからね」
「離して、千草さん」
アイ子の硬い声に、千草は素直に腕を解いた。
「こういう強引なやり方、あたしは好きじゃないです」
「おやおや。僕としたことが、読み間違えたかな?」
バーテンダーにすっとカードを滑らせながら、千草はアイ子に微笑みかける。
「魔王スマイル、やめてくれます?」
「君、この顔好きだろう?」
「とんだナルシストですね?!」
「事実だと思うけれど。ねえ、アイ子ちゃん」
財布を出そうとするアイ子をわずかな手の動作で止めて、千草が立ち上がった。
「僕はね、まあ、たまに負けることはあるけれど、これはと決めた勝負は、落とさないことにしてるんだ。じゃあ、またね。今夜も楽しかったよ」
「またなんか、ないですからねっ!」
顔を赤くした理知的な美女が、ボリュームを絞った小声で叫ぶ。
「んふふ」
すれ違った女性が思わず見ほれるほどの笑顔を見せた千草は、一瞬立ち止まってアイ子を見つめてから、ラウンジを出ていった。
「な、なんて厄日だ。着拒……、したら呪われる?」
ギムレットを飲み干して、アイ子は取り出したスマートフォンの画面をにらむ。
どんな手も通じなさそうだが、そうやすやすと、相手の思うツボにはまってたまるか。
見てろよ、魔王め。
こっちだって、もう小学生でも高校生でもないんだから。
そう思ったアイ子は、まだ知らない。
そういう態度こそが、魔王・千草の大好物であることを。
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