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キミよ、幸せにー前編ー
暦の上で、ゴールデンウィークが迫ってきた週末。
浮かれた雰囲気に満ちた夜の繁華街を歩きながら、鳴り止まないスマートフォンの電源を切った。
「どうして?!なんで別れなきゃいけないのっ!」
「そういうとこかな」
「そういうって、あ、待ちなさいよっ!」
「出してください」
オレは運転手に一万円札を差し出して握らせると、さっさとタクシーを降りる。
「まっ」て。
バタンとしまったドアが、女のキンキン声を遮ってくれた。
滑るように走り出したタクシーだけど、すぐに止められてしまうかもしれない。
いや、彼女が使う路線の終電は終わっているし、タクシー乗り場もそこそこ人が並んでいた。
あの彼女なら、腹を立てながらも、そのまま家に帰るだろう。
ほくそ笑みながら、オレは早足で地下鉄入り口の階段を降りていった。
けっこう長く、……二年近くになるか。
つき合った相手だったけれど、最近では結婚の話題ばかり出すから、うんざりしてきたところだった。
「もうそろそろ、私たちもいい年じゃない?」
「この間、部長からお見合いしないかって話があって」
なんて、こっちを試すようなほのめかしをしてきたのだから、別れを切り出す頃合いだろう。
オレのことなんて、それほど好きでもないくせに。
いや、それはお互いサマか。
バンド仲間の打ち上げで出会った、知り合いの知り合い。
向こうはオレの条件に惹かれたんだろうし、こっちはスキマ時間を埋めるのに都合がよかった。
それでも、つき合っている間は誠実でいようと努めたし、甘やかして、会う時間も極力作っただろう?
それ以上を求められるのは、重いんだ。
今度のバンドの練習で、紹介してくれた同期には嫌味を言われるな。
「また別れたのか」って。
会えば結婚を迫られていると言えば、理解してくれるだろうか。
常にイニシアチブを取ろうとする態度にも、嫌気がさしてたし。
歴代カレシのプレゼントがどうとか、別れ際にすがりつかれたとか、そんなこと知ったことか。
オレを思い通りに動かせると思うなよ。
「従順な女が好きなのか」と聞かれたこともあるが、それも違う。
こっちの話に、ただうなずくだけの相手なんか、なにが面白いんだ。
「じゃあ、どんな相手ならいいんだよっ」
呆れた目をしていた同期に、なんと答えればよかったのだろう。
歴代でたったひとり。
フラれた相手のことを、どう話したらよいのか。
(小学生に横取りされました、なんて言えるかよ)
静かになったスマートフォンを胸ポケットに戻して、ノドに引っかかった小骨のような思い出を振り払う。
漏れ出しそうになるため息を飲み込んで、乗り換え駅の改札を出たオレの目の前を、ひとりの若い男が横切っていった。
「ごめん、遅くなった!」
(!!)
忘れようったって忘れられない、あの駄犬の声だ。
スーツ姿の背中はすっかり大人になっていたけれど、走り寄っていく向こうに見えている人影を見れば、それが間違いないとわかる。
微笑みながら、胸元に上げた手を小さく振る女性の仕草は、かつてオレに向けられていたものだから。
そろえた指先を少し曲げて、おいでおいでをするような、可愛らしい手が好きだった。
待っていたと、会えて嬉しいと言われているようで。
「ごめんね、萌黄さん」
遠く、懐かしい名前が聞こえてきた。
「走らなくてもよかったのに」
記憶にあるまま、変わらない声が笑っている。
「だって、もう終電ないじゃん。萌黄さんひとり待たせてたら、かどわかされるに決まってる!」
「そんな決まりはありません」
くすくす笑う相手の隣にいそいそと並んで、駄犬はその手を取って歩き始めた。
その横顔を見上げている笑顔は、オレのものだったこともあるのに。
いや、あんなに無防備に笑ってもらったことなど、……記憶にない。
中学で同じクラスになったときには、正直、しばらく名前も憶えなかったような存在だった。
顔はカワイイ。
でも、それだけのコ。
その印象が覆ったのが、部活で同じトランペットを選んだとき。
かなり不器用なほうで、なかなか上達しない部員だったと思う。
けれど、めげることがない。
誰にからかわれても、悪口すれすれの批判を受けても。
ニコニコとやり過ごして、トランペットから手を離さない。
先輩をとっつかまえてはアドバイスをもらって、自主練も重ねていたようだ。
気がつけば、部内でも一目置かれるような演奏をするようになっていて、その音たるや。
「ゆっきーって、いつの間にあんなに上手になったの?」
「すげぇ音だな……」
先輩たちが絶句するくらい、パンチのある音を出すようになっていた。
初めて彼女がソロを任せられたのは、中学2年の部活紹介。
緊張で手を震わせているクセに、ウマくコントロールしているその姿に、オレは目を奪われたんだ。
しかも、ただ大人しいだけだなんて、まったくのお門違いで。
小鬼な友人への誹謗中傷を耳にしたときなんて、同一人物なのかと疑ったほどだ。
「スイブなら楽器で勝負すればいいのに。何しに部活に来てるの?他人を貶めるのがそんなに好きなら、意地悪部にでも転部すれば?ああ、意地悪部なんてないから、創設からしなきゃだめだね、お疲れさま」
いつも笑っているような目がキリっと吊り上がって、相手をギリっと凝視して。
その姿をきれいだと思った。
目だけではなく、心まで奪われていた。
それが、オレの苦難の始まり。
なにしろ彼女には、こいつら人間じゃねぇだろと思うほど、やっかいな味方がついていたのだから。
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