今どこにいるの?

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「ねえ、今どこにいるの」 「そんなことよりさ、空を見上げてみてよ。月がとても綺麗なんだ」  電話をかけ続けること15分。やっと出た彼にひとこと文句でも言ってやろうと身構えていたはずなのに。私は彼の言葉を聞いた瞬間、思わず空を仰いだ。  小さな星の輝きは数あれど、月の明かりなんてどこにも見当たらない。  私は空を見上げたまま小さくため息を吐き出した。 「あのさ。今、どこにいるの?」 「月の光ってホント不思議だよね。月にまつわる話が昔から沢山あるのは、皆この月の光に魅せられてしまうからなんだろうね」  何も返事を返さない私に構うことなく彼は話を続ける。 「水も空気も無いただの凸凹の星だってわかっていても、この星から見上げる月がそんなことを微塵も感じさせない所が月の魅力のひとつなのかもしれないよね。僕はね、小さい頃からずっと『どこかへ帰りたい』っていう気持ちが消えなかったんだ。その『どこか』っていうのはたぶん月なんじゃないかって思うんだよ。根拠?そんなのは無いよ。ただ何となく。あ、しいて言うなら月を見上げた時に感じる胸がギュッとする気持ちがね、小さい僕が両親と一緒に写っている写真を見たときに感じる、あの何とも言えない気持ちに似てるからなのかもしれない」  この話を聞くのは何度目だろう。  そして昔は分からなかったこの、彼の言う『小さい僕が両親と一緒に写っている写真を見たときに感じる気持ち』というのが腑に落ちるようになったのは、私の母がもう長くは無いとわかったあたりからだろうか。  あの頃から写真に写る母の笑顔や、写真の中の母が私に向ける眼差しを見る度に、なぜだか胸が締め付けられるような気持ちが押し寄せるようになった。  私が年を取ったのか。それとももう、先がほとんどない母に感情移入してしまうからなのか。  そのどちらでもあるし、どちらでもないのだろうということはわかるのだけれど、その気持ちを的確に言葉で表すことはまだ私にはできない。だから彼の言っている気持ちと私の感じている気持ちが同じかどうかは分からないけど。それでもこの気持ちを初めて実感できた日、彼との距離が少しだけ縮んだような気持ちになれて嬉しかったことを思いだす。 「ねえ、今どこにいるのよ?」 「それにね、夜空に浮かぶ月は切ないような、帰りたいようなそんな気持ちになるけど、お昼に浮かんでいる月はとても優しい気持ちにさせるって知ってた?いつでも見守ってくれているっていうか、そっと寄り添ってくれているっていうか。え?見たことないの?それはもったいないよ。今度明るい時間に空を見上げてみてよ」  私はいつも空を見上げていた彼の横顔を思い浮かべる。どうして彼がそこまで月に思い入れるのか私には理解できなかったけれど、彼にとって月というものがとても大きな存在であることだけは理解できた。いや、理解できたと思っていたというのが正しいかもしれない。 「でね。僕はね、そろそろ帰ろうと思うんだ」  それが彼の最後の言葉。  そしてこの彼との電話も、この言葉が終わりの合図。  私の言葉は彼には届かない。  昔も。  今も。  これからも。    私は毎日彼に電話をかける。  あの頃使っていた電源の入らない携帯電話で。  そして彼はいつも同じ話をする。  何度も何度でも。  私と最後にかわしたあのやりとりを。 「ねえ、今そこにいるの?」  私は見えない月を仰ぎながらそう尋ねた。 〈終〉  
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