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帰り支度も終わり、あとは夜の道具屋が来て、挨拶をして帰るだけになっていた。軽く一言ふたこと世間話でもして、予定通り、居酒屋に向かうつもりだった。すでに口の中が飲みたいと要求している。飲んでもいないのに鼻孔にシュワシュワしたイメージが浮かぶ。
カランカランとドアベルの音がする。
客だったら困る。ふつうの道具屋はもう閉めてあるので俺は売れない。売れないこともないが、今、片付けた物を全て出してこないとならない。そしてそれをまた片付けなければ居酒屋へは行けない。だからできればそれはやりたくない。
でも、夜の道具屋はまだ来ていないのでそっちも売れない。そうなると帰ってもらわなければならなくなる。
できればそれは避けたい。
収入的にも避けたい。しかし道具屋に来たということは、道具が必要になったということで、もしかするとそれはとても重要な場面であるかもしれない。
小さな傷を治すために薬草が必要で、どうしても薬草が欲しいという客かもしれない。小さな傷だから大金は使いたくない。でも痛痒くてかなり不快な思いをしていて、薬草ならちょうどいいのにという客がこの時間に来たら、やりたくはないが商売をせねば……。
客のニーズにはできるだけ応えたい。
しかし、思っていた高さに人の顔はなく、そこから下方に良く知った顔があった。
「おとーさん」
息子のマークだった。
俺の顔を見て満面の笑みを浮かべ、すぐにカウンターまでやってきた。背が足りないので少し背伸びをして顔を見せる。
仕事の疲れなど吹っ飛ぶ。それまで悩んでいたことも吹っ飛ぶ。
「ひとりか?」
妻が現れる気配がしない。
「うん。おかーさんにおとーさんを迎えに行ってって言われたんだ」
力いっぱいうなずく息子は、冒険をしてきたかのようなキラキラした顔をしていた。
マークにとっては冒険だったのだろう。
道具屋は商店街の隅にあるが、商店街は王都の中心にある。俺が住んでいる住宅地はもう少し離れたところにある。いつもは俺の妻である母親と一緒に来るのに、マークは一人でここまで来たのだ。
「よく来られたな」
すごいぞ、さすが俺の息子。マークの頭をなでる。
「えへへ~」
頬を紅潮させ、嬉しそうだ。
しかし、こんな逢魔が時に5歳児を一人でおつかいさせるなんて危険である。家に帰ったら妻と話し合わねば。うちの子は賢くてすばしこいから大丈夫かもしれないが、予想外のことはいつ起きてもおかしくない。
「早く帰ろー」
はちきれそうな笑顔で言う。
最近、居酒屋に寄ってから帰ることが多かったから、それを見越して妻が寄こしたのかもしれない。俺の妻は賢い。それだけでなくとびきりの美人だ。目立つことはないが、地味に整った顔をしている。
居酒屋が遠くなる。行くのは無理だ。
でも、こんなにかわいい息子が迎えに来たら、帰らなければならない。暗くなった道を一人で帰すわけにもいかない。居酒屋に連れて行くなどもっての外。そんなこと、あってはならない。
「まだ夜の道具屋が来ないから、待ってるんだ」
夜の道具屋が来たら、すぐに帰ろう。可愛い息子と一緒なら悪くない。居酒屋に行くよりも嬉しい。
「え~」
とたんにマークの表情が曇る。
「夜のおじさん、また寝坊してるの?」
マークは夜の道具屋を『夜のおじさん』と呼ぶ。俺と夜の道具屋は同世代だから微妙に嬉しくない。
「寝坊かどうかはわからない」
他の理由かもしれない。
「ボクが呼んでくるよ」
それまで以上のキラキラな笑顔。冒険に行く気満々な笑顔だ……。
「いや、別にいいだろう?」
急かさなくても、そのうち来るはずだ。
「早くおかーさんのシチューが食べた~い!」
もしかして、シチューが食べたかったらか迎えに来たのか? そんな気がする言い方だった。
「2階にいるよね!」
元気よく言うと、俺が返事をする前に階段を昇って行った。
ちょっと淋しい。
ちょっとだけだ。
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