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誰にもできない役目 第一話
『いいか、当局の許可はすでに出ている。奴をすぐに汚い穴倉の中から、引きずり出してこい!』
強力な法律と伝統的な階級制度によって成り立っている、この一大国家を代表する、優れた中央行政官であるアレク・ディマ氏は、自分の眼前に二重三重に整列した、多くの部下たちを前にして、そのような高圧的な態度によって指令を下した。一聴して乱暴な通達にも思えるが、これは理に叶ったことである。つまり、国家が定めた法律に基づいた正当な強制執行である。大勢の部下たちは、長年にわたり、鍛えられた野生的な本能から、常にその目をぎらつかせている。彼らは問題解決に向けて、この先で、どんなに手ひどい抵抗に遭ったとしても、この命令を遂行することを国家元首の肖像の前に誓った。この特殊部隊というのは、紛争解決用の強力な兵器を多数備えており、その肉体的にも超人のごとく鍛えられている。これまでに起こった国境紛争やデモ鎮圧などの緊急事態においても、一度の失策も敗走も体験したことはないほどだ。
ディマ氏はそんな頼もしい配下たちを、心から信頼していた。しかしながら、この困難にも思える一件に関しては、自らが現地に乗り込み、陣頭指揮にあたると明言した。これには誰もが我が耳を疑った。国家の重鎮のひとりが、砲弾の飛び交う戦場の最前線まで乗り込み、その指揮をとるとなると、前代未聞の出来事である。その話を聞きつけて、多くの心優しい部下が彼を諫めた。何とかして、ディマ氏をこの安全なる地に押しとどめようとした。
「あなたのような偉大なお方が、このような庶民的でちっぽけな事件に関わってはいけない。一部隊や二部隊があれば、解決するには十分ではありませんか。その立派な軍靴が、少しでも泥土によって汚されることがあったなら、いったい、どうなさるおつもりですか?」
皆が口を揃えて、そのような意見を述べた。ディマ氏はこれまでどんな困難な案件を前にしても、その全てに対して万全の態勢を取り、その全てを見事に解決して、間違いを犯したことなど一度もなかった。すべての難題を法に則り、公平に、迅速に、いかなる人間の疑念をも、いっさい起こさせぬ形で解決してきたわけだ。政治家や行政官のみならず、街をせわしなく行き交う、一介の商人や踊り子や金貸しや酔っぱらいであっても、彼の名前の重みをその栄誉とともに理解していたし、その手腕には絶大なる信頼と尊敬を寄せていた。
ディマ氏は軍隊に対して出発の号令をかける直前に用心のために、ロシア製の二丁の小型拳銃と、刃物や銃弾など絶対に通さない、分厚い防具を我が身に備えた。五十人をゆうに超える、特殊部隊に属する部下たちは、首都から送られてきたばかりの最新の機関銃、手榴弾、北米製のプラスチック爆弾、小型の攻城兵器を備えて、大忙しの様子で出発の準備に取り掛かっていた。王宮での会合に向かおうと、何の気なしにその場を通りがかった、呑気な行政書記官たちは、その目を疑うような素振りを見せていた。
「皆さん、どうなされましたか? これから、紛争でも始まるのですか?」
「紛争と仰いましたか。まさに、その通りです」
ディマ氏は難題に晒されているとき、そのような無知蒙昧な輩を話相手にするのも億劫であった。緊急時の空気も読めないような連中は、軍事的にも内政においても、何の役にも立たないからである。何かを尋ねられるたびに、そう簡単な返事をして、あとは完全に無言を貫いた。この重大行動の目的や内容の詳細に関しては、部下の下級官吏たちにも、いっさい知らせる必要はないと判断していた。国家のためにのみ行われる、自分の切実な行動を、愚かなる人間たちに知らしめるということ自体が、まったく、無意味なことに思われた。それどころか、情報が他に漏れてしまえば、マイナス側に針が振れる恐れすらあった。彼は規則で決められたことを、なぜか守ろうとしない馬鹿どもを根本から教育し直して、今度こそそれを遵守させる、というありきたりな行為についても、時々、不意に失望することがある。この国に住む誰もが、法律と道徳を完璧に遵守して日々の生活を送っているならば、そもそも、この世界に警察も裁判官も軍隊も必要はない。この一件はいわば見せしめの意味合いもあったわけだ。決められた規則を守り抜くという、しごく当たり前のことの重大性を、昼間から酒を飲みまくってくだをまく、愚かな庶民どもの頭上に広く知らしめるためだけに、時折、こうした強引ともとれる手法に出なければならなかった。まったく、これは不幸なことである。
ディマ氏が率いる、新進気鋭の警察隊は軍事用に特別製造された巨大なトラック二台と三十名の騎馬隊とで構成され、まだ、夜も明けきらぬうちに中央官庁の広場を出発した。延々と畑と林が続く、退屈な田舎道の合間を、そのまま数時間にわたり走り続けた。
正午頃から霧雨が降り始めた。梅雨時のための舗装が為されていない田舎道は、そこかしこで深い水たまりができていた。多くの軍事機材を載せたトラックは、そのタイヤを何度か深い水溜りに取られ、その泥土から脱するために、長時間にわたり、立ち往生する羽目になった。ディマ氏はそれでも先頭車両の助手席において両腕を組んだまま、冷静さを失わずに、激しい風雨による、どのような妨害にあっても、感情を表に出すことはなく、奮闘する部下への配慮も欠かさなかった。細い山道のあちこちで出会う分岐点には、必ず次の街への方角を示す立て看板が設置されていた。長年の悪天候に晒されてきたために、ほとんど腐りきっているものが多かった。しかし、何とか無事に目的地に着けるよう、神に願ってきた通り、それらの教示が間違っていたことは一度もなかった。旅人や郵便職員と出会うことすらなかったために、秘境の奥地にたどり着くためには、その看板の表示が唯一の命綱となった。首都を出発してから約十時間が経過して陽も傾き、夕方近くになったとき、ようやく目的の村へと到着することができた。
そこは、崩れそうな藁ぶき屋根の住宅が二十も存在しない、中央の都市群からは完全に隔離された寒村であった。活気とか熱気といったものが、およそ感じられない。流行り病で死んだ家畜の捨て場所のような雰囲気を醸していた。村の中央には小さな石造りの教会、村のはずれの寂しい草地には誰も訪れることのない墓場があった。村民は三十人もいないと推察できた。軍隊の到着を知って、すっかり老いぼれた村長と、それ以上に老いぼれた神父が、普段着のままで現れ、この地区の代表者としてディマ氏への面会を求めてきた。数十年にもわたり、外界から完全に遮断されてきたこの村に、このような物々しい部隊が派遣されてきたことなど、一度もなかったからだ。
「今さら、おまえたちと話さなければならないことなど、何もない。大人しく引き下がりなさい。この私がここまで出張ってきた以上、中央の命令は必ず遂行されるであろう」
ディマ氏がなるべく声色を抑えて、そのように伝えても、責任感の強いその二人は、なかなか引き下がろうとはしなかった。
『ここは何の資産も持たない、貧乏な村ですが、村民の一人ひとりには絶対的な人権が保障されるべきです。無慈悲な行為はおやめください』
『この村に武器や不審な情報を所持している人間はいません。どうしても、この村へ侵入するのであれば、せめて、武装を解いてもらえませんか』
代表者である二人は、両手を合わせながら、このような趣旨のことを、繰り返し訴えてきた。この実にくだらない一件とて、元はと言えば、このような無能な統率者たちによる、村民への道徳教育が十分に行き届いていないために起こったわけだ。それにも関わらず、よく、このような身勝手で厚顔無恥な訴えを繰り出せるものだと、ディマ氏は内心穏やかではなかった。
「いいから、おまえたちは引き下がりなさい。数時間もあれば万事片が付くから、各々が大人しく家に籠っているといい。君たちは今回の件とは、まったく無関係だ」
ディマ氏が再びそう命じると、直属の数人の兵士が脇から飛び出して来て、助けを求める二人を偉大な指揮官の視線に入らぬ位置まで連行した。そして、次に邪魔をするようなことがあれば、傍にある大木にでも縛り付けるぞ、と脅しておいた。多少、威圧的にも見える行為であるが、国家と民衆を巧妙に扇動していくためには、これもまったく問題のない、きわめて正当な行為なのである。
「村の一番南東側にある、壊れた水車を備えた家のようです」
他の数人の村民を脅しつけて情報を得てきた部下たちが耳元まで寄ってから、そのような報告をした。
「奴は今、家にいるのか? すでに逃げたのなら、無駄足になるが」
「複数の村民から得た情報によると、外出した気配はないようです。女房も家にいるようです」
夜のとばりは刻々と下りようとしていた。あと半刻ほど待って、辺りがすっかり暗くなってから、『そのような行為』に及んでも、特に問題はないように思われた。ただ、帰り道にかかるであろう時間のことを考慮に入れれば、なるべく、早く解決するに越したことはない。ディマ氏は部隊の先頭に立って、足早に『奴』の家へと向かった。山間に位置するこの小さな村は、中央部まで来なくとも、ほぼ全貌を見渡すことができた。村長たちは木の陰に身を潜めながら、今もこちらの為すことを伺っていた。家畜にもなれなかったやせ細った山羊も心配そうな目でこちらを見やっていた。途中の道に家畜の牛を何らかの理由で貨車に繋ごうとしている男がいた。障害のために右足を引きずっていた。千切れた布を無理矢理繋ぎ合わせたような、汚い衣服を身にまとっていて、とても惨めに思えた。ディマ氏はその男に対して、これからの問いかけに速やかに答えるように要求した。
「この村に住む、ピューローという男のことを知っているか?」
その村人は眼前に突然軍隊が現れたことに、ひどく驚いた様子を見せた。このような大勢の人間から、同時に注目されることさえ、初めてのことだった。調理用の小型ナイフの扱いさえ知らぬ男が、機関銃を備えた軍隊に取り囲まれるなんて……。
「へい、あそこの……、敷地の一番隅にある水車小屋に住んでいます。どうなさいました……? あいつが何かしでかしたんで?」
「余計なことは口にするな。では、一つだけ聞くが、奴は家の中に何か凶器を所持しているか?」
「とんでもございません。あいつは生まれついての本物の農家でして……。家畜は昨年まで二頭ほどの子牛がいたはずですが……。流行り病で両方ともくたばったようです……。とにかく、ここ最近は働いた様子もなく、何の持ち合わせもないはずです……。いつも、飢え死に間近の野良犬のように食料を求めて、ふらふらしてまさあ。村長から数日分の食費を借りたりしなければ、あと三日も生きてはいけないほどでして……」
ディマ氏はそういう話を聞いて、気を抜くような凡庸な人間ではなく、ますます、この重大な事件への警戒心を募らせていった。彼は目の前の汚らしい村民が、古井戸の底をはびこる無数の青蛙のような、世の中にとって、まったく実のない存在であると理解はしていても、それならば、常に本当のことを証言するであろうとか、おそらく、都市部から訪問してきた官吏に対して、最低限の敬意を払うだろうとか、安易な期待を持つことはなかった。貧民の言葉については常に疑う。本物の上級行政官とは、このような卓越した知性を持ち合わせた人間でないと務まらないのである。
「それで……、あいつがいったい何をしでかしたんですか? この大軍は何ごとです? あいつは確かに飢えてはいますが、大根の葉っぱひとつ盗める男ではございません。それは確かです……」
当然のことではあるが、ディマ氏はそのような質問に答えることはなく、このくだらない村民との、これ以上の会話を断固として拒絶する形で、さっさと目的の民家へと足を向けることにした。民家は近年建てられたと思われる、目新しい丸太小屋であった。一目見て、これは専門の雇われ職人の手によるものではないと判断した。ひとたび大嵐でも来れば、屋根のトタンから薄っぺらい床板まで分解して、跡形もなく吹っ飛ばされてしまうような、雑な造りに思えた。このすぐ近くの川沿いに小さな林が点在していた。この民家の大部分を形成する木材は、おそらくはその林から持ち込んだのだと推測できた。特殊部隊の三人の配下が、ある程度の警戒心を保ちながら、ゆっくりとその小屋に歩み寄り、木製の扉を軽くノックした。
「おい、ピューロー、聞こえるか? 大事な話がある。とにかく、外へ出てこい」
中に人間がいることを意識して、そのような丁寧な問いかけがなされた。緊張感に包まれた数分の時が流れていった。中からは何の反応もなかった。まだ、室内に人がいるかどうかは判断できなかった。憲兵たちはとにかく扉を開こうと懸命の形相でドアノブを引っ張ってみた。しかしながら、内側から何らかの仕掛けが施されているようで、数人がかりで懸命に引っ張ってみても、開かなかった。
「中から丈夫な掛け金をしているようです」
ディマ氏はその言葉を聞いて、後方の待機部隊に視線だけの合図を送った。相手方がこのくらいやることはすでに予想済みであった。すぐに、巨大な鋼鉄製のハンマーが現れ、もっとも体力に秀でている突撃隊の隊員が、それを大きく振りかぶり、いかにもひ弱な木製の扉に勢いよく叩きつけた。二度目の打撃で扉は粉々に破壊された。ディマ氏の命令を待つことなく、隊員たちは次々と室内に飛び込んでいった。それから、二十秒も経たずに、その真っ暗なねぐらの中から、甲高い、女性の叫び声が聞こえた。
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