誰にもできない役目 第二話

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誰にもできない役目 第二話

「何をなさるのですか! お願いです、どうか、そのような乱暴は止めて、お帰りください!」  暴力的な態度で室内に踏み込んでいった隊員たちは、その女性からの悲壮な訴えには、いっさい耳を貸さずに、険しい表情のままで家具を一点ずつ綿密に調べながら、薄い木の床を鉄靴を踏み鳴らし、どんどんと奥へと進んでいった。外観を見た限りでは、決して広い家ではない。すべての家具をひっくり返しながら、宅内の捜索を完全に終えるまでに、それほどの時間は必要ないと思われた。玄関から入って、すぐ奥には四畳半ほどの狭い居間があり、そこから、廊下をつたって奥の二つの寝室へと通じているようだった。居間の黄ばんだドアの向こうには、簡素な便所があるだけだった。有能な隊員たちは、この狭く貧相な民家を十数分も経たずに調べ尽くした。そして、今もなお、玄関の脇に座り込み、どうか命だけは助けてくださいと、うるさく喚いている、ふくよかな体形の中年女の他には、この家の内部には誰もいないことを確認した。  ディマ氏は民家の外観をゆっくりとした足どりで、一通り見て回ってから、室内へと踏み込んでいった。中で待機していた隊員たちは、一様に自信なさげな表情を浮かべており、この通り、我々が見つけ出さねばならぬ男は、どこにもいません、と報告するしかなかった。ディマ氏はまず、敷地自体がきわめて狭く、隠れる場所など満足になかったはずの、この村の全貌を思い浮かべてみた。次いで、ここへ至るまでの長大な道のりで眺めた、まったく人の手が入っていない、険しい山岳地形のことも考えてみた。他から告げ口があったか、それとも、超常的な第六感か、とにかく、被疑者が事前に身の危険を感じたとして、昨日のうちに村の外へ逃亡したとしても、三日分の食料すらろくに持ち得ない我が身に、すぐに破滅が訪れることなどは、どんな凡人にも容易に想像できるはずである。つまり、我々の来訪を事前に察知していたとしても、乗用車や遠距離バスの運賃すら所持していない弱者が、今さらどこへ向かおうとも、何の援助も得られぬ荒れ地への抜け出しを謀ったとは到底考えにくかった。 「奴は必ずこの家の中にいるはずだ。おそらく、短時間のうちに隠れ家を見つけたはずだ。どんな小さな抜け穴も見逃すな。もう一度、隅々まで徹底的に調べ上げろ」  その力強い指令を受けて、隊員たちは再び生気を吹き込まれ、各部屋へと散っていった。外で待機していた重機部隊は、いくつものアルミ製の梯子を壁に立てかけて、屋根に登り、その上を詳しく調べ始めた。ディマ氏は男の連れ合いと思われる女のところへ歩み寄った。 「おい、この家の床下に貯蔵庫などはあるか? 今のうちに話せば、痛い目を見ないで済むぞ」 「そんな備え付けはありません。主人は昨日になって、この家からそそくさと逃げて行きました。行方は誰にも知れません。お願いです。乱暴はやめてうちの平和を守ってください。どうか、どうか、お帰りください」  女は泣き叫びながら、自分たちは何の悪意も持たない無害な住民であると、そのように哀願した。ディマ氏は女の軽すぎる口調から、これは単純なウソであると見抜いて、目的の人物はすぐ近くに潜んでいることに、ほぼ確信を持った。彼は大きな鎌や鍬を使用して、カーテンやぼろのカーペットや、うす汚れた壁紙を乱暴に引っ剥がし、今にも腐りそうな床板を次々と剥がしながら、大捜索を続けている隊員たちの様子を黙って見つめていた。そして、ついに待ちかねていた報告がなされた。再捜索を開始してから、十分も経たないうちに、寝室のベッドのさらに奥を調査していた一人の隊員が、その脇に目立たない色彩の大型の物置きを見つけた。背の低い痩せた男性なら、ちょうど、すっぽりと収まりそうなサイズである。さらに、その扉は道具なしでは簡単には開かないことを意気揚々と報告してきた。狭い民家のあちこちに散開して捜索にあたっていた、すべての調査員がそこに駆けつけてきた。 「おい、開けろ! さっさと出て来い! 中にいるのはわかっているんだ!」  脅迫じみた多くの呼びかけがなされたが、箱の中にじっと身を潜めている何者かが、外へ出てくる気配はなかった。先ほど、玄関の鉄扉を破壊するときに多大な功績を上げた鋼鉄製のハンマーも、幾度となく使用された。百メートル先の隣近所まで響き渡るような、大きな音を張り上げて奮迅したが、この頑丈な洋服入れの留め金をこじ開けるまでには、至らなかった。おそらくは、扉の取手を内側から両手で握りつつ、大量の冷や汗を流して、その内部に息を潜めて立て籠もっているであろう被疑者の、異様なまでの執念が伝わってきた。  この小さな部屋の床に横たわる、たった一つの旧型の洋服箱を巡って、十数人の屈強な軍人がそれを取り囲み、これを剣や手槍で力いっぱい殴りつけ、その上、巨大なハンマーを両手で抱えて力任せに叩きつけ、あるいは、丈夫な黒い革靴で、寄ってたかって踏みつけた。隊員たちは、そういった暴力的な活動によって、何とか被疑者確保への光明を見出そうとしていた。しかし、洋服箱発見から二時間ほどが経過しても、それは弱者の盾となる鉄巨人のように立ちはだかり、解決への糸口はまるで見つからなかった。  何の武器も持たないはずの一般人に、よもや、これほどまでに手こずらされるとは、首都を出てくる際には、想像すらできなかったことである。この箱を発見したときには、完全なる勝利を信じて疑わなかった多くの隊員の表情にも、次第に焦りの色が伺えるようになってきた。ディマ氏は隊員たちの忠誠心と正義感とを完全に頼ることから始まった、この熱い戦いを、居間の椅子に腰をかけ、その両手を胸の前で組み、微動だにせずに、戦闘が行われている奥の部屋の方向から、ひとときも目を離さずに見守っていた。  国家の法によって明確に示された指令を、どうあっても履行したくない、という明らかに誤っているはずの意志が生み出す執念が、ここまで強固なものだとは、彼とて想像できなかった。あの大戦後、政府と国民とが一体となって、平和と産業の発展を誓い、あらゆる生活物資の生産国となった先進国のドイツ。その腕利きの木工職人たちが自国の面子にかけて生み出した、マホガニー製の丈夫な洋服箪笥は、我が国の隊員たちによる懸命な攻撃をことごとく跳ね返してみせた。隊員たちも偉大な先輩と祖国の大地に潜む、自然界の神々の視線とを背中に感じながら、その誇りにかけて、失敗という形で引き下がるわけにはいかなかった。なるべく、効果的と思われる攻撃を一箇所に集中させながら、さらに数時間をかけて破壊工作を続けることになった。その滑稽な、しかも、きわめて不毛な攻防が続く間、容疑者の妻と思われる女は、もはや、反抗することも祈ることもできずに、ずっと居間の隅に座り込んで、しとしとと泣いていた。  これまでの偉大なる歴史において、何度となく祖国の危機を救ってきた、天上に住まう神々からの恩恵の光が、ようやく、この田舎町にまで届けられたのは、日付が変わる寸前の真夜中過ぎになってからであった。無骨な自分を、長きに渡り養ってくれた主人の尊厳を何とか守ろうと、決死の防衛を続けてきた筋肉質の洋服箱は、軍人たちによる圧倒的な破壊活動の前に、ついに白旗を上げ、上部の蓋の一部が取り外されるに至った。その穴から中をいち早く覗き込んだ隊員のひとりは、その内部にうずくまる形で、一人の生きた人間が、箱の内側にすっぽりと収まっていることを報告した。それが知れると、すべての隊員がたちまち息を吹き返し、再びいきり立って、ついに洋服箱は申し分なく分解され、あちこちがつぎはぎだらけの安っぽいパジャマを身にまとった、ミイラのような男性が、箱の外へと引きずり出された。その見苦しい姿に向けて、多くの怒りと疑惑の視線がそそがれた。 「こいつ、なんて、非協力的な野郎だ! こんなに長い時間、手こずらせやがって! いったい、何様のつもりだ!」  一人の良識ある軍人が、やせ細った男の髪の毛をつかむと、それを無理やり立たせた後、思いっきり、その頬を殴りつけた。それを契機にその場にいたほとんどの軍人が、身を守ろうと抵抗すらできない奴隷の顔面を、泥のこびりついた軍靴で蹴りつけ、幾度となく踏みつけにした。確か、ピューローと名乗る、このひ弱な男は、自分の身に極大の危機が迫っていることは、うすうす知っていたわけだが、彼の身に訪れた数々の暴力沙汰は、その浅はかな想像を遥かに越えるものであった。  居間でこの状況を観察していた偉大なるディマ氏は、かなりの時間にわたり、その様子を興味深く眺めていた。しかし、その慣れ切った展開に、いい加減飽きが来たのか、やがて、ゆっくりと椅子を発つと、きわめて無謀な反逆者でもある、そのみすぼらしい男のすぐ眼前まで迫ってきた。 「これから最初の質問をする。おまえに考える猶予はない。すぐに返答してくれ。首都の官庁からの呼び出しの通知は届いていたはずだな? では、なぜ期日までに出頭しなかったのか、をまず聞こう」  ディマ氏は熱くたぎる、その心を感知されぬ形で、まずは形式的な質問をした。完全に追い詰められた、その男は恐怖心からか、それとも屈辱感からか、小刻みに身体を震わせていた。ここに至っては、どう答えようとも、マイナスにしかなり得ない返事など、するつもりはないようである。民法を半分ほども熟知しているとは思えない、安上がりな地方行政官によって行われる、簡易的な裁定であれば、人権や自由などという便利な単語を盾にした、ふてくされたような態度を取ることも、ある一定の理解を得られよう。だが、返事を待ちながら、彼の眼前に佇んでいるのは、この国の政治、行政の最高権力者のひとりである。国家からいっさいの施しを受けたことのない貧民であろうが、いかれた悪霊崇拝思想の持ち主であろうが、黙秘権の行使など、決して許されないのである。偉大な権力者からの無言の圧力に耐え切れなくなった罪びとは、とうとう、その重い口を開いた。 「あの残酷な決定は、あんたたちが誰も知らねえとこで、勝手に決めたことだ……。俺らだって、貧乏人かも知れねえが、国民のひとりだ。あんなものは、到底、受け入れられねえ……」  耳をそばだてねば聴き取れぬほどの小声ではあったが、男は確かにそう反論をしたのだった。その不穏な返事を聞きつけた何名かの部下が、礼儀をわきまえぬ、この見苦しい男に身の程を分からせようとした。しかし、高名で度量の広いディマ氏は、さすがに理解のある行政官であった。憤る部下たちをその視線だけで押しとどめた。 「おまえを選んだのは、我々の勝手な意志や都合などではない。これは国家による、何人も揺るがせぬ決定である。さらにいえば、神による崇高な意志でもある。おまえには判断を保留する権利も、これを拒否する権利も、その一切が与えられてはいない」  ディマ氏自らが、今日ここで行われていることは、すべて国家による鉄の意志であるとの見解を述べた。地面に這いつくばっている貧乏人に、反論の余地はないように思えた。この男の盾となり、弁護しうる人間は、この地上には存在しないのだった。事実、男はしばらくの間、冬眠に入ったかのように身動き一つしなくなり、その残酷な決定をすっかり受け入れたようにさえ見えた。しかし、その数分後、男の口から飛び出てきたのは、神を嘲るような恐ろしい呪詛の言葉だった。 「あんたたちは……、自分たちには決してできないことを……、いったい、どうするのか、判断しかねて、日々の暮らしもままならない、一般の貧しい商人や農民に、これを押し付けようとなさっているだけだ……。そんなに強い武器を発明できるのなら、その難しい問題も、自分たちの脳みそだけで解決なさったらどうかね? 金や住居にはまったく困らねえ生活をしているくせに、やることが余りにも汚すぎる……」  およそ、この国の豊潤な土や水から恩恵を授かり育ってきた人間の口から、発せられたとは思えぬような、この辛辣で自己矛盾に満ち満ちた言葉には、温和で知られるディマ氏でもさすがに耳を疑わざるを得なかった。いくら、なんの家柄も資産も才能も所持しない貧民であっても、同じ国家の住民であることには疑いようもないはずだ。ディマ氏は王族や大貴族以外の人種を汚れもののように、極端に嫌ってはいたが、今回の偉大なる意思決定に関していえば、これらの汚い農民たちからも、ある程度の支持は受けられるものと信じ込んでいた。  つまり、国家への奉仕の多寡や、住んでいる地区は違えども、同じ国民として、未来に称賛されるべき、今回の進歩については、喜びを分かち合えるものと信じきっていた。しかし、目の前の汚らしい男の口をついて飛び出てきた言葉は、彼の友愛精神を真っ向から裏切るものだった。ディマ氏は怒ってなどいなかった。この偉大なる案件の前では、怒りの感情を示すということでさえ、不謹慎なことのように思えた。彼は自国の住民のひとりに、このような反逆者がいたことに、すっかり失望していたのだ。ディマ氏が命ずるまでもなく、太い鉄棒を握りしめた数名の部下たちが、男のすぐ横に迫っていた。 「やめてくれ! そんなことは、もうやめてくれ! あんたらに人情はないのか!」  男は泣き叫んでいたが、彼の部下たちは武器を持って容赦なく男の顔面を殴りつけていた。それほど時間を要せずに、上半身のいたるところから鮮血が噴き出した。容易には拭き取れぬほどの、おびただしい血が床板を赤く染めていった。後ろで見ていたはずの他の隊員も、男の言い訳じみた見苦しい発言や、上級官吏に対して唾を吐くような、その不届きな所業を目の当たりにして、我慢がならなくなったのか、痛い痛いと喚き散らす男の元へと次々に集まって来て、そのやせ細った身体をさらに殴りつけたり、蹴り上げたりした。集団心理がさらなる暴力を生み出し、数分も経たずに、その場にいたほとんどの隊員が、このリンチに参加することになった。  当然のことながら、ディマ氏はそういった行いを制止しようとはしなかった。彼を国家の代表者とみなすならば、これは国家から与えられた権威ある処罰である。扉の外側から、このような行為を盗み見ていた数人の村民たちは魑魅魍魎にでも出くわしたかのように恐れを為したが、今起こっていることを村長宅まで知らせにいったとて、この事態を解決することはできないことも理解していた。 「どうだ、おまえだって、我が国の構成員のひとりのはずだ。少しは忠誠心を発揮する気になっただろう? 与えられた仕事を従順にこなせそうか?」  ディマ氏はそのぼろきれのような哀れな男を、遥か上から見やる形で、静かにそう尋ねた。男の耳はもはや国家が何を告げているのか、聴き分けられなくなっていたが、己の運命を冷たく見据える、その視線だけは強く感じていた。 「生まれついたときは同じ人間だったのに、いったい、どこで、こんなに大きな差がついたのかは知らないが、国政の一番汚い部分だけをこっちに押し付けようだなんて、どうやったら、そんな冷酷な発想ができるんだ!」  男はすでに助かろうなどとは思わなくなったらしく、開き直りともとれる態度によって、そのような卑劣極まる理屈っぽい言葉を紡ぎだした。ディマ氏はその非礼極まりない態度を見るにつけ、「こいつはただの人でなしだな」との簡潔な判断を下すことにした。国政における革命ともいえる一大イベントは、もう目の前まで差し迫っていた。これ以上の暴行を加え続ければ、この男は首都への移送ではなく、墓場に向かう可能性の方が高くなるだろう。この卑屈な男を理想的な愛国者へと改宗させるような無駄な時間を今さら作り出すことはできなかった。ディマ氏はこれまでの長い体験の中で、数々の政務上の修羅場を体験してきたからこそ、このような想定外の事態にも、きわめて落ち着いた対処をすることができるのだった。 「こいつの後ろ手に手錠をかけろ。その状態でも運ぶのが難しいなら、今度は足も縛れ。遺憾だが、説得と折檻は向こうでやるしかあるまい」  その非情な台詞を受けて、男は次に起こる事態を察知したようで、生物の本能からくる、最後の激しい抵抗を試みた。人家の畑を長期間にわたり食い荒らした咎により、ついに捕獲されるに至った、野性の雄イノシシが、人知を超えた猛烈なる抗いを見せるかのように、この男も純朴な百姓として生き続けることを、どうにも諦めきれぬ様子であった。その恐ろしいまでの暴れっぷりを、戦い慣れした軍人たちに存分に見せつけた。鋼のような肉体を誇る暴力沙汰専門の隊員が、五人がかりにより、男の身体を床の上に押さえつけて、その喉を両腕で強く締め付け、最初に目隠しをして、次に口元に特性の強力な粘着テープを二重三重に巻きつけ、東洋の武術、柔道の寝技の要領で巧妙に抑え込み、両足を太い縄で縛り上げて、その動きをついに完全に封じることに成功した。その後、かなりの時間を要したが、ようやく両方の腕に頑丈な手錠がかけられた。 「よし、この状態のまま、外に運び出すぞ。だいぶ時間をロスしたようだな。すぐに帰還だ」  ディマ氏はすべての部下に撤収を命じると、目的の荷物を抱えた隊員たちが速やかに屋外に出たことを確認してから、民家の外に歩み出た。長時間にわたる作業はようやく終わりを告げたのだ。その敷地の外には、泣きわめくことにさえ飽き飽きした、この男の細君が呆然自失の表情で立ちすくんでいた。それを慰める者さえ側にはいなかった。女は何を目標にしているかさえわからぬ、ぼやけた視点の先に、ディマ氏の冷酷な顔をじっと見据えていた。ただし、彼がすぐ横を行き過ぎても、長年墓場に佇んだ結果、結局は目的を失った幽霊のように、何一つ言葉を発することなかった。すべての権利を奪われ、何も抵抗できなくなった人間たちが、権力機構に対して行う、最後の非難のやり方なのだと理解することにした。  仕事終わりの部下たちは、先ほどのあばら家から運んできた荷物をトラックの荷台に向けて乱暴に放り投げた。ようやく目的を成し遂げた二つの武装部隊は、村民たちに何ら別れの挨拶もせずに、事も無げにそのまま走り去っていった。中央政府の恐るべき処断を目にした多くの村民は、裁判などを通じて、この件に歯向かおうにも、いつ、どの施設に訴えるのかさえわからず、自分たちには生まれついた日から、そのような力すら与えられていないことを、ようやく知ったのだ。  ディマ氏は先頭のトラックの助手席に座り、窓の外の東の方角へ目を向けた。山の際にうっすらと見える橙色の光線が、やがて来る夜明けを知らせてくれた。彼はその間、頭の中で何度も慎重に計算を重ねた結果、このまま何ごともなく事態が進めば、自分が指揮をとる一大式典には、なんとか間に合うと確信していた。トラックは険しい山道に差しかかり、運転手がガードレールも備えていない危険な岩場を、恐怖も焦りもなく、慣れた腕前で右へ左へと急がしくハンドルをきっていった。彼はまるで宴会の余興を楽しむかのように、ある程度の興味をもって、その様子を眺めていた。やがて、その単調な動きにより眠気を誘われた脳が、少しずつ意識を失いつつあった。それから十分も経たずに、彼は自然に眠りの世界に落ちた。  おそらくは夢だと思われるが、次々と現れては消える、その無数の幻想の中で、俺たちの人権を返せ、権力者は横暴をやめろ、などと汚く罵ってくる一般市民との、幻ともリアルともとれる、寒々しい対話と論議が次々に展開され、それに足を取られるたびに、彼はその心をひどく傷つけられた。  しかしながら、国の未来を思えば、民衆全体に対して、大規模な粛清をかけることはできない。なるべくなら、犠牲者は少ない方が好ましい。国家の日々の取り組みを一手に仕切る行政官としては、我慢せねばならない範疇でもある。不毛なる戦いの日々に、疲れ切った彼の身体を載せながら、装甲トラックは延々と続く田舎道を首都の中央省庁に向けてひた走っていた。
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