序章~第一章

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序章~第一章

序章 人は誰しも仮面をつけている。 ピエロのような笑い顔。 鉄のような無表情。 いろいろあるけれど、一番の理由は自分の心を守るため。 あなたの仮面は――? 第一章 「起立。朝礼始めます」 その一言でみんなが取り掛かっていた仕事を中断して立ち上がる。 「えー、今日の予定はー……」 編集長がカンペを読み上げるのをぼーっと聞き流しながら、私は今日の自分の予定を巡らせる。 午前中に打ち合わせが二件。コラムが一つ納期直前。 間違いなく残業だ。そう結論が出るとともに、ズーンと肩のあたりが重くなる。 「……以上になります。それでは、連絡事項はありますか? ……無いようですのでこれで朝礼を終わります」 つつがなく朝礼も終わり、各自がデスクに戻ると本格的に業務が始まる。 私はパソコンの画面と取材メモを交互に睨みながら、記事を書きだす。 パチパチとキーボードをはじく音、電話のコール音、話声が交錯するここは女性向けファッションブランド雑誌『charm』の編集部。 その一角で私はライターの端くれをやっている。 ここにきて早四か月。仕事も少しずつ頭に入ってきて毎日が充実してる。 してるけど……。 「なあなあ、お前、彼女とはその後どうなの?」 「どうもしねえよ。普通普通」 ひそひそと人目をはばかるように交わされた会話が、ぐさりと刺さる。 彼氏いない歴イコール年齢、という数式が心臓の中で重りに変わる。 ――恋ってどんなだろう。 周りを見ていると楽しそうなイメージがあるけれど、実際のところは経験がないのでわからない。 私にもいつか王子様が現れるのだろうか。 ……一生無理かも。 そもそもそんな目で男の人を見たことがないし、これからもそうだろう。 「なーぎさ」 肩を落とした私をひょこりと覗き込む影。 「フミ……」 にこにこと笑顔を浮かべながら私の名前を呼んだのは中越史果。 暗めの茶のショートボブをさらりと揺らして、少し幼さの残るあどけない顔つきをしている女の子。 「どうしたの、そっち終わった?」 「今長峰さんに提出してぼっこぼこにされたところ……。へへへ」 やり直しだーとぼやく史果に私は同情の念を隠せない。 「大変ね、特にフミは目をつけられてるから……」 「やめてよ、おっかなさすぎてお腹痛くなっちゃう」 冗談めかしてそんなたわいのない話を交わす。 「凪沙は何悩んでるの?」 「へっ?」 突然そんな話題を振られて、ガタッと椅子が音をたてた。 「暗ーい顔で今にもため息つきそうな様子だったら気になるじゃん」 「あ……あはは、何でもないの、ちょっと個人的なことでね」 「ふうん」 納得のいったようなセリフだけど納得はしていないな、これは。 「本当に、何でもないから。私は超元気だよ!」 「別に悩むのは良いけど、相談くらいしてよね。友達がいがないぞ」 「はいはい」 ひらひらと手を振ってこれ以上は何も出ないぞと意思表示すると、フミは意を得たりとにこやかに自分のデスクに戻っていった。 いい友達を持ったなあ。 得難い幸運をかみしめながら、私も作業に戻るのだった。 その日は特に暑い日で、もう夜だというのに地面から熱気がもうもうと立ち込めていた。 私はくすぶる暑さをどうにか我慢しながら、家路を急いでいる。 「今日昼間は溶けるかと思ったもん、夜も暑いよね……」 そんなことを独り言ちて、立ち止まる。 こんな夜でも、いや、こんな夜だからこそ繁華街は盛況している。 どこの居酒屋からも楽しそうな笑い声が外まで響いているし、呼び込みのお兄さんたちが景気よく声を張り上げている。 ――帰りに何か飲めるもの、買っていこうかな。 家に帰ってお水を飲むのでもいいけれど、今は何か味の付いた飲み物が欲しかった。 疲れもとりたいし、何か甘いジュースでも良いかもしれない。 そんなことをつれづれと思いながら歩いていると、ふと喧騒が遠くから聞こえているのに気が付いた。 「あれ?」 なぜか私は繁華街から外れた路地に入り込んでしまっていたようだ。 「うそ……」 会社近くのアパートに引っ越してきてからだいぶ経ったというのに。今まで酔っててもこんなことなかったのに! 「道を一本間違えただけだよね」 恥ずかしさを隠すようにそうつぶやくと、回れ右をして再び繁華街に向かって歩き出そうとした時だった。 バァン! と激しい音をたてていきなりドアが飛んできた。 「きゃあ!」 避ける間もなく私は思い切りドアの体当たりをくらってしまった。 痛い。心づもりも何もなかったから本気で痛い。 思わずしゃがみ込んでしまったけれど、何とか視線はドアの方に向けた。 「何よ、こんな店、二度とこないわ!」 その直後、吐き捨てるような女性の声が響いて、おぼつかない人影が繁華街に向かって消えていってしまった。 「おーおー、二度と来るなー、セクハラ女」 続いて間延びした男性の声が聞こえた。 何? 何がどうなってるの? 「あれ、さっき悲鳴が聞こえたような……?」 ぼんやりとした声の男性はドアを閉めると、私に気が付いたのか、とことこと近寄ってきた。 「すみませーん、大丈夫ですかー?」 男性が私を覗き込むように膝をついた。 「だ、大丈夫です。すみません」 私はそう言って立ち上がろうと力を入れた。 けれど、ぶつけた顔がまだ痛くて、思わずよろけてしまった。 「あーあ、本当に大丈夫っすか? ケガしてるかもしれないし、明るい所で見せてもらってもいいっすかね?」 呆れたように男性がそう言うと、私の腕をつかむ。 「え、ちょ、ちょっと」 「大丈夫、大丈夫。取って食おうってんじゃありませんから」 暗くて表情は見えない。男性は戸惑う私をぐいぐいと引っ張っていき、先ほどのドアをくぐる。 「すいませんオーナー。この子、さっきので怪我してるかもしれないっす」 「お、お邪魔します……」 遠慮がちに足を踏み入れると、そこは小さなバーになっていた。 一本の木から切り出された大きなカウンターに、それに合わせられた木製の椅子。カウンターの後ろには棚が設置され、お酒のボトルが所狭しと並んでいる。オレンジの照明がそれを照らし、あたたかみのあるおしゃれさを演出している。壁際には丸テーブルと椅子のセットが置かれ、中央でキャンドルが炎を揺らめかせている。 ――こんなおしゃれな店がこんな路地に……。 思わず見入っていると、さっきの男性がもう一人の男性を連れてやってきた。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。お怪我はありませんでしたか?」 心配そうに私を覗くその人は、五十代くらいで少ししわの目立つ顔で優し気な雰囲気だ。少し白髪交じりの短い髪をワックスでセットしている。どうやら、この店のオーナーのようだ。 「あの、ご心配をおかけしまして申し訳ありません。私は何ともありませんのでお気になさらないでください」 慌ててそう言うと、傍に控えていた男性に「いいからいいから」と促され、あれよあれよとカウンターに座らされてしまった。 「うわ、痛そ……。鼻血出てるし」 「えっ」 言われて気が付いた。顔の中心から血がぽたぽたと垂れていることに。 う、うわああああ! どうしよう、こんな高そうなお店の床を汚しちゃったかも! 「す、すみません、すみません! すぐ床掃除しますから!」 パニックになって椅子から飛び降りた。 どうしよう、汚れがとれなかったら弁償ってことになるかも……! そうなったら絶賛貧乏中の私では一生かかっても返せない借金に……! 「ああ気にしないでください! 掃除はうちのものがやりますから……」 オーナーさんの慌てた声が降ってくるものの、どうにかして汚れを取ろうとウエットティッシュで床を擦り続ける。 ああ、上着は鼻を抑えていたせいで腕を伝ってきた血で汚れるし、床は結構汚れてるしサイアク……! 何て厄日だ、と軽く頭痛を覚えたその時。 「お待ちください」 先ほどこの場にいた誰とも違う、低くて優しい声が聞こえた。 「え?」 驚いて顔を上げる。 ――そこには、美しさの代名詞が立っていた。 すらりとした長身をバーテンダーと思われる制服に包み、濡れ羽色の髪をすっきりと流したパーマヘア。切れ長の瞳はさながら最高級のオニキスがはめ込まれたよう。薄い口元も男性的な魅力に満ちている。 「……」 言葉も失って見惚れてしまった。 その男性は優しく私の手を取ると、流れるようにカウンターの椅子に私を戻し、さりげなくゴミを取り上げると、濡れたハンカチで丁寧に私の顔をぬぐって、立てかけられたモップでさっさと床を掃除してしまった。 「めずらしー。ジュンちゃんが女の子に話しかけるなんて」 「うるさい」 間延びした男性の声にぴしゃりと言い放つ。そんな姿も様になる。 何だろう。彼を一目見た時から、胸がドキドキしてる。 彼を見ていると頭の芯がぼうっとして、足が地面から浮いてしまったかのような錯覚をしてしまう。 何、何なのこれは!? 私、何かの病気?! 「あの」 「ひゃい?!」 突然美しいテノールボイスが私を襲う。 もう頭の中はぐちゃぐちゃが極まっているのだけれど、そうも言っていられなくて、間抜けな声が出てしまった。 「よろしければ、手の汚れにお使いください」 そう言って彼は私におしぼりを差し出していた。 「あ、ありがとうございます……」 せっかくなのでそれを受け取って汚れた手を拭いた。 ふう、ちょっと落ち着いたかも。 「あ、あの、おしぼり、ありがとうございました。助かりました」 ちゃんと相手を見て言わなきゃ失礼、とは分かっていてもどうしても直視できなくて少し視線がずれてしまう。 「いえ」 彼は気にしていないようだ。抑揚のない声が返ってきた。 「ジュンちゃん、愛想なさすぎ。もうちょっと表情だしたら?」 「きゃ?!」 私の真後ろから声がした。私を店に連れてきた男性が、カウンターに両肘をついて笑っていたのだ。思わず驚いちゃったじゃない。いつの間にそこにいたの……? 「申し遅れました。俺、こういうモンです」 男性はうやうやしく私に紙を差し出していた。名刺らしい。 受け取ると、お洒落なバーに似つかわしいお洒落なデザインのそれには『相沢平助』と大きく書かれている。 「病院行って、何かあったらここに連絡してくださいっす。ほらジュンちゃんも」 「……」 彼はため息をつきながら懐を探ると、相沢さんと同じデザインの名刺を差し出した。 「どうも、ありがとうございます。私も……」 これでもれっきとした社会人だ。名刺くらい持っている。……ここのみたいにお洒落じゃないけど。 「へえ、駒見さんって言うんすね」 興味深そうに名刺を相沢さんが眺めている。 それを尻目に、私は彼からもらった名刺をまじまじと見た。 『櫻井絢哉』と黒の太字が座っている。 櫻井さん。なんだか彼にとても似合っている。 文字を見ているだけなのに、鼓動が大きくはねた。 「……僕の名前に、何か」 あまりにも凝視しすぎたらしく、櫻井さんに声をかけられてしまった。 「い、いえそんな……。難しい方の櫻の漢字を書くんだなって、それだけで……」 苦しい言い訳をしてしまった。 どうしてだろう、男の人と話すときにこんなに言葉が上手く出てこないことなんて今までなかった。本当に悪い病気なのかもしれない。 「あはは、すみませんね。ジュンちゃん、愛想なくって」 苦笑しながら相沢さんが間に入ってくれる。 確かに出会ってから今まで表情はピクリとも変わらなかった。声も意図的に抑えているのでは、と思うほどに抑揚がない。 何か理由があるのだろうか。知りたいけれど、突っ込む勇気は私にはない。 「あの、素敵なお店ですね。私最近引っ越してきたばかりでこのあたりにはあまり詳しくないのですけれど、すごく雰囲気が良くて落ち着きます」 その代わりに、お店について思っていることを口に出してみた。櫻井さんを除けば、居心地は抜群に良いことは嘘ではない。 「ありがとうございます。ここは十年前に開業して以来、細々とやってきた店でして、今では常連のお客様にもご来店いただけるようになりました」 オーナーさんが嬉しそうに説明してくれた。 「へぇ……」 私はもう一度手元の名刺に目を落とす。 少し小さめの字で「Bar Destino」と書かれている。 「デス……?」 「デスティーノと読みます」 オーナーさんが言った。 「ええと、ラテン系の言葉ですか?」 「はい。イタリア語ですね。『運命』という意味でして。人の出会いは一期一会。運命のない出会いはない。ただ偶々立ち寄ったバーで同じカウンターにかけるのもカウンター越しに顔を合わせるのも一種の運命なんです。そんな出会いを大事にしたいという意味で付けた名前です」 にこやかに説明してくれるオーナーさん。 「運命……」 今、とても良い言葉を聞いた気がする。 あとで手帳に書いておこう。 「お時間、大丈夫ですか」 オーナーさんが優しく聞いてくれる。 「もう家に帰るだけなので……」 「そうですか。では、一杯いかがですか?」 オーナーさんがシェイカーを持ち上げた。 「私、カクテルって飲んだことなくて……」 遠慮がちにそう言うと、オーナーさんはにっこりと笑った。 「大丈夫ですよ。初めての方にもおすすめなものをこちらでお作りしますから」 「じゃあ……おすすめのを一つ」 「かしこまりました」 丁寧にお辞儀をされてつられて「よろしくお願いします」と頭を下げてしまった。 そんな私に微笑みかけた後、後ろからボトルを二本選ぶと、手際よくグラスに注いでいく。 その手元を、子供のように覗き込んでしまう。昔もこんなふうにワクワクしていた時があっただろうか。 やがてグラスが目の前に運ばれてきた。紫っぽい赤色でワインのよう。 「こちらは『キール』というカクテルでございます。白ワインにカシスリキュールをくわえたもので、今女性に人気のお酒です」 とんと音をたてて目の前に置かれたそれを恐る恐る手に取って口をつける。 「……甘い!」 甘いお酒って酎ハイぐらいしか飲んだことなかったけど、これはカシスの甘みが白ワインで爽やかに乗って口に広がる。 「美味しいです! こんなおいしいお酒初めてかも……!」 感激のあまり、思ったことがすぐ口をついて出てしまう。 言ってしまってからハッとなる。どれだけ貧乏舌なんだ、私! 「お気に召していただけたようで何よりです」 オーナーさんはそんなことを気にしたそぶりもなくにこやかに答えてくれた。 「ご存じですか、カクテルも花と同じように『カクテル言葉』というメッセージ性があるものなんですよ」 「え、カクテル言葉?」 花言葉、はよく聞くけれど、カクテル言葉って聞かないなあ。 「例えば、そちらのキールは『最高の出会い』なんて、ロマンチックな言葉があるんですよ」 「へえぇ……!」 知らなかった。そんな素敵なものがこの世にあったなんて! 私は素早くバッグから手帳を取り出すと、メモ欄に素早く残す。 「珍しいっすね。今どきアナログのメモなんて」 相沢さんがひょこりと私の手元を覗き込んだ。 「わっ、急に覗かないでください……」 びっくりした拍子に手帳にしおりを挟まず閉じてしまった。 「すんません、気になって」 「大したものじゃないですよ。面白いなって思ったものを書き留めておくだけですから」 ほら、と先ほどのページを開けると、『カクテル言葉』『キール、最高の出会い』の他に今までメモした言葉が所狭しとつまっている。 「こうしておけば、何かの折に役立つかもしれないじゃないですか。友達との会話の話題とか、仕事とか」 「なーるほど」 だんだん敬語が崩れていくのが面白いな、相沢さん。 今度はきちんとしおりを挟んで手帳を閉じた。 「敬語、要らないですよ。私のほうが年下ですし」 生年月日も名刺で確認済みだ。 「えっ、良いんすか?」 彼の金髪がふわりと揺れた。 「どうぞ。全然気にしない質なので」 「嬉しいなー。ナギちゃんって呼んでもいい?」 「コラ、相沢。初対面の女性になんてことを……」 オーナーさんが相沢さんをたしなめ、櫻井さんも呆れたような視線をよこしている。 「構わないですよ」 私が苦笑しながらそういうと、相沢さんは心底嬉しそうな笑顔になった。 「ふふーん、ジュンちゃんもオーナーも羨ましいんでしょー?」 「羨ましくない」 櫻井さんが即答する。 「何だよー、素直じゃないなあ」 相沢さんが櫻井さんを肘でつついている。櫻井さんはそれにも動じた様子はない。 「あ、私、そろそろお暇しますね」 残っていたキールを飲み終えると、お代を置いて立ち上がった。 「また来てねー、ナギちゃん」 「この出会いが最高の出会いでありますように」 そんな言葉に送り出されながら、私はお店のドアに手をかけた。 「……お気をつけて」 ぶっきらぼうな櫻井さんのその一言に一番心躍らされたとは言い出せないまま。
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