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苦悩
――今どこにいますか?
押し込められていた意識が急速に呼び戻された。
突如降り注いだ声にすぐにでも反論したかったが、チャームポイントである大きめの口が、ただの飾りであるかのように声が出なかった。
――私はここにいた!
叶うことなら叫びたかった。
息苦しい生活に嫌気がさし、家出をして代々受け継がれてきた古い洋館に戻ってきた彼女は、久しぶりに人間らしい感情を発露することができた。
洋館は以前の栄華がまるで嘘のように錆びつき朽ち果てかけており、ついには彼女の存在さえも、繰り返される惰性の日々に消失するところだった。
現代社会の闇よろしく粛々と自我を押し殺してきたが、その人生を“消滅”という形で終わらせることだけは、彼女のプライドが許さなかった。
上手く声を上げることができなかった彼女は、愛用のマスクを耳にかける。
流行りの感染症など関係なく、淀み始めて何年、いや何十年になるかわからない洋館の、埃っぽい空気に耐えられなかったのだ。
ある種天啓のような声が響いたあの日、彼女は思い切って監獄のような家を出た。外は寒くなってきていたが何も問題はない。壁際のポールスタンドには、薄っすらと埃をかぶってはいるが色褪せることのない、お気に入りの朱殷のロングコートがある。
烏の濡羽色という言葉では足りない程に美しい黒髪を靡かせ、埃を払ったコートに袖を通す。
「なんて素晴らしい世界になったのかしら」
ようやく出た掠れ声で呟き、妖艶に笑う。
様々な苦悩に苛まれた、怖い程に美しき女性の再生の時だった。
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