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血の色
テレビからは今日も様々な話題が流れ出す。
「新型ウイルス感染者数は増加の一途を辿り――」
「犬神町の路上で男性が死亡しているのが発見されました。男性は鋭利な刃物のようなもので――」
「外出の際はマスクの着用を――」
「イタッ…… くそっ! 慣れないことはするもんじゃないな」
とあるアパートの一室の台所にて、シワの目立つワイシャツを着た男性の怒声が響く。食パンだけの朝食に彩りを加えようと、冷蔵庫からレタスを取り出し、カットしていた矢先に包丁を滑らせたのだ。
白いまな板に広がっていく血の赤を見ながら、傷口を洗う。
「毎日こんなめんどくさいことをしてくれてたのか……」
本当に大切なものは失って初めて気づくだなんて、流行りの歌の中だけのことだと思っていた。
◆
朝早くから夜遅くまで働き詰めの男性が家で口にする言葉といえば、「飯にしてくれ」「風呂沸かして」「疲れてるんだ」ぐらいなものだった。
しかしそれは強制力の強い魔法の言葉で、「飯にしてくれ」と言えば美味しい料理が用意され、「風呂沸かして」と言えば風呂のスイッチが押され着替えとタオルが用意され、「疲れてるんだと」と言えば話したそうなその口を噤んでくれた。
だが、考えも感謝もなく魔法を使用し続けた代償は、あまりにも大きすぎた。
――しばらく実家へ帰ります。
珍しく早い時間に帰宅したある日、リビングのテーブルの上に置かれていたメモ。相変わらず几帳面な字だった。
焦った男性はすぐさま携帯電話を取り出し連絡するが、電話をしても出ず、SNSのメッセージも無視された。
(会いに行くか? いや、でも……)
男性の頭に現実的な考えがよぎる。
奥さんの実家は少し離れた場所にある。
車で行けば朝までには戻ってこれる距離だが、あいにく明日は朝イチで捜査会議がある。それに備えた本日の早めの帰宅であり、家出した妻を迎えに行った精魂尽き果てた体で、はたして仕事になるのだろうか。
(頑固なとこがあるから、迎えに行ったところで素直に戻ってくれるか? むしろ会ってすらくれないかも)
思い返せば奥さんが出ていく直前にも、冷たい対応をしてしまっていた。
泊まり込みの仕事になりそうだったので、着替えなどを取りに一時帰宅するも奥さんは不在。彼女は買い物に出ていただけだったのだが、準備を任せる気満々だった男性は身勝手に苛立った。すぐに電話をし、『今どこにいますか?』と、怒っていると伝わるように、低く丁寧な言葉で八つ当たりした。
そんな数日前の過ちを後悔し、頭を悩ませ結論を出した頃には結構な時間が経っており、いつもは自分で押すことのない給湯ボタンを押した後、その日最後のメッセージを入れた。
――すまない、帰ってくるのを待ってる。
自分で入れたお風呂は少しぬるかった。
◆
ザアザアと流れ続けていた水道の水に意識を引き戻される。
あれから1週間、奥さんは戻ってくるどころか連絡1つ返してこなかった。
実家に電話もしてみたものの、本人ではなく妹さんが出て
――ごめんなさい、姉が電話に出たくないと。
という、素気ない対応にて終話してしまう。
(俺も忙しいし、無事ならそれでいいか)
結局そんな結論に達し、その味気ない考えが家出を決意させた理由だということに気づけないまま、呑気に絆創膏を探しだす。
家の整理なども任せっきりだった彼が絆創膏を貼ることができたのは、探し始めて15分後、血が止まりだした頃だった。
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