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名ばかりの愛
美しい三日月が路地を鈍く照らしている。
そんな薄暗い路地裏にぼんやりと人工的な四角い光が輝いていた。
――迎えに来ないから。
寂しげなメッセージを受信したのは、陽が暮れた後だった。
すぐに電話をかけるが電話には出てくれず、緊張で上手く動かない指で何とか入力を済ませ、メッセージを送信。
――すまなかった。すぐ行く。どこにいるんだ?
電話に出ない理由は気にならなかった。
あるのはただ1つ、早く謝りたい、それだけだった。
忘れていた感謝の気持ち、それが当たり前になっていて急に失ってしまった日常。彼女は今1人のはずだ。
思えば出会った時も彼女は1人だった。
まるで自分はこの世で1人っきりかのような悲壮感を露わにしており、思わず声をかけてしまったのは男性から。
「大丈夫ですか?」
人の役に立ちたいと思い警察官になったが、仕事に馴染めずにミスばかりで落ち込んでいた在りし日の男性。仕事ができずに先輩には煙たがられ、同僚からは蔑まれる日々。
居場所のない自分に彼女の姿が重なったのだとわかった。
振り向いた彼女は、長く美しい黒髪とマスクで顔を隠しながらさめざめと泣いていた。
――私は1人なの。
絞り出すような、蚊の鳴くような声で漏らした。
――なぜ1人なのかわからない。
――もう誰も見てくれない。
記憶喪失かと思ったがそうではなかった。
都会に憧れて田舎から出てきたことも覚えていたし、住所もハッキリと覚えていた。両親は幼い頃に他界したが、資産家だったおかげで生活に困窮することはなく、2人の妹と力を合わせて生きてきたことも話してくれた。
(この人を1人にしないぞ)
人生の終わりだと言わんばかりに暗く落ち込む彼女を見て、男性は誓ったはずだった。
一目惚れだったのかもしれない。
自身の境遇に重ね合わせた同情は次第に形を変え、赤く燃えるような恋になり、彼女に人間らしさを取り戻させたはずだった。
しかし長く続く交際と結婚生活の果てに、それは形だけの、名ばかりの愛へと成り下がってしまった。
走る。
正面の空に浮かぶ三日月には手を伸ばしても届かないが、奥さんにはまだ間に合う。
しっかりと掴み、二度と離さないように抱きしめなければいけない気がした。
走る、走る。
三日月なんかよりも明るく照らしてくれた、あの笑顔にもう一度会いたい。
もう二度と泣かせたりしないように。
走る、走る、走る。
パッチリした目も、あの長く美しい黒髪も、笑うと細く伸びる大きめな口も、すべて愛してきた。
名ばかりに成り下がった愛を、もう一度本物に戻すために。
走る、走る、走る、走る。
自分に自信がなく、いつも人のことばかりを気にしていたあの女。
ともすれば口うるさいと思われかねないぐらい「きれい?」と聞いてくるようないじらしい人。
目的地はもうすぐだった。
――犬神町4丁目、思い出の路地で待ってます。
男性はその場所を知っている。
初めて出会ったのも、デート帰りに通ったのも、彼女のわがままでプロポーズの場所となったのも、すべて思い出のその路地だった。
両膝に手をついて、絶え絶えの息を整える。
思い出の場所で、もう一度やり直すつもりだった。几帳面なくせに、時間にだけは少しだけルーズな彼女を思い、笑みが止まらない。
ようやく息も整い始め、汗を拭い丸めていた背を伸ばして想い人を待つ。
(あれっ、ここって?)
顔を上げた男性は、思い出の場所に妙な既視感を覚えた。
最近確かにここを訪れたような、そんな感覚。
そしてその記憶を鮮明に思い出したその瞬間。
「お待たせ」
マスクのせいか、少しくぐもった声。
やはり少し遅れてきたなんて微笑ましく思っていると、不意に背中に熱を感じた。
――なぜ
―――なぜ、なぜ
なぜ出ていったのか、なぜ今日だったのか。
そんなことはどうでもよかった。
「な、、、んで?」
再会で感じた熱はアツい抱擁ではなく、夜空に浮かぶ三日月と同じ形をした、それでいて三日月よりも冷たく輝く鎌による接吻だった。
望まぬ接吻は1度で終わらず、執拗に背中へと繰り返された。
背中に感じる熱とは裏腹に、身体は急速に熱と力を失っていく。
冷たい路地裏のアスファルトに身を伏せてすぐ、先程の妙な既視感の正体に気づいた。その場所は、連続通り魔殺人事件の最初の現場だったことを思い出したのだ。
「私はずっとここにいた」
無様に転がる自分を、マスク姿の黒髪の女が見下ろしている。
目元しか露出していないが、わからないはずがなかった。
「どうし、、て、、、?」
呻き声交じりに問う男性の姿が可笑しいのか、焦げ茶色っぽいコートを揺らしながらゆっくり頭上へ歩み寄り、笑いながら言った。
「なんて素晴らしい世界になったのかしら」
質問に答えることはせず、目元だけ恍惚として笑う。
これまでの奴隷のような生活がそこまで嫌だったのかと、激痛に悶えながらも男性は悔いた。
「すま、なかった……」
痛みか悲しみか後悔か怒りか、涙を流す男性。
視界が霞んでいくのは涙のせいだけではなく、ジワジワとその身を赤く染めていく血液も加担していた。
すでにまともな思考をする力はほとんど残されておらず、最後になるであろう力を振り絞り、口を "あ" の字に動かした。
しかしその行為が、人差し指を優しく押し当てられ阻まれてしまう。
「愛してる、なんて言わないでね?」
ようやく発せられた脈絡ある言葉であったが、死にゆく男性を絶望の淵に叩き落すには十分すぎた。徐々に歪んでいく視界に三日月をバックにした待ち人の顔がハッキリ映り、冥途の土産のつもりだろうか、マスクを外してその顔を見せつけた。
そこには男性が愛した人の面影はほとんどなかった。
空に浮かぶ三日月が2つに増えたような錯覚を最後に、男性は永遠に意識を手放した。
女性は動かなくなった男性にそっと口を寄せた。
「愛してるだなんてそんな嘘、ここまで口が裂けてる私だって言えないわ」
◆
サイレンを鳴らし赤色灯を回しながら走行してゆくパトカーを横目に、2人の女子高生が携帯電話を片手にはしゃいでいる。
「ねぇ知ってる? 最近SNSで流行ってるやつ」
「もしかしてあの都市伝説?」
「そうそう、それ!」
「でもその都市伝説って、かなり昔にも流行ったらしいよ。うちのお母さんが言ってた」
「えっ? じゃあまた復活したってこと!?」
「そうなんじゃない? ほら、新型ウイルスのせいで今はほとんどの人がマスクしてるじゃん? そのマスクの奥がどうなってるかなんて……」
「ちょっ、やめてよぉ!!」
「あんたから話し出したんじゃない!」
ふざけ合う2人の横を、さらに別のパトカーが走り去っていく。
「またパトカー? さっきも走ってったし、最近多くない?」
「もしかしたら都市伝説のあの女が……」
「だからやめてってば!!」
――ドンッ
「あっ、すみません!!」
2人してふざけていたものだから、前から来た通行人にぶつかってしまった。
「いいのよ。気にしないで」
パッチリとした目だけで微笑んで返す女性。
長く美しい黒髪とのコントラストも相まって、2人は一瞬目を奪われた。
その様子に目ざとく気づいた女性は、悪戯っ子のように笑いながら2人に尋ねる。
「私、きれい?」
「「はい、とても!」」
意図せずハモってしまったことに2人は赤面し、女性は満足そうに笑んだ。
「その焦げ茶色? のコートもいいですね! 単色じゃなくて全体的に淡く斑なのも素敵です!」
「あら、見る目あるわね? 古いけどちょっとお高いコートなのよ」
「やっぱり! 実は私達服飾科で、ファッションとかはちょっと詳しいんです」
「そうなのね。なら覚えておいて。これは焦げ茶色じゃなくて、朱殷っていうのよ。古い言葉だけど、帰ったら辞書で引いてみなさい」
「は~い!」
少しだけ長くなった話も終わり、彼女らはそれぞれの帰路につく。
2人との距離が広がり周りが無人になった時、女性は大きめの声で呟いた。
「なんて素晴らしい世界になったのかしら」
――誰もが私を知っている。
――知らない人にもすぐに伝わる。
SNSが急速に普及した現代、マスク着用の効果も相まって、失われかけていた伝説が再び蘇った。
『今どこにいますか?』
かつて仮の姿の自分を苦しめた、冷たい声を思い出す。
そして何もかもが吹っ切れたように、ハッキリと宣言した。
「私はここにいます」
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