*空中散歩

1/3
前へ
/262ページ
次へ

*空中散歩

八月も終盤とはいえ、翌日はまだまだ青い夏空が眩しかった。 くっきりと浮かぶ入道雲は遠く、風は足元の塵を揺らす程度だ。 ハルは自分の濃い影を踏みながら寮の屋上へ出ると、目一杯熱い空気を吸い込んだ。 絶好の空中散歩日和。 昨夜(しご)かれた名残は目の下に沈殿しているが、そんなものは太陽から得るビタミンで丸ごと帳消しだ。 「よし!」 手にしたカメレオンアプリが高音を響かせる。 ハルを取り囲む空気の膜が、蒸せる暑さを追い出し紫外線を弾いた。 「行こう、越前!」 期待に胸を膨らませながら振り返ったが、越前は極渋な顔で腰に巻かれたロープを引っ張っていた。 「こんなに細い紐で大丈夫なのか?」 越前からすれば何の保証もないバンジージャンプを飛ばされるようなものだ。 それなのに安全装置といえばハルの腰と繋がったこの頼りない紐だけなのだ。 「ハル、やっぱり…」 「さぁさ、出発ぅ!」 雲行きが怪しくなる前にハルの手が越前を掴む。 越前は心の準備が整う前に浮遊感に包み込みこまれ、ひやりとした。 重力から切り離された体がバランスを失い不安定に揺れる。 また急上昇するのかと手に力が入ったが、予想に反してハルは緩やかにフェンスを越え、大地に並行するように飛び始めた。 「…どこへ行くんだ?」 「えーと、とりあえず越前が慣れるまでは町の上を飛んでみようと思って」 ハルはちょっぴり気まずそうに「この前は乱暴なことしてごめん」と謝った。 必死だったとはいえ、急にあんな高いところへ連れ出されて恐怖を感じないわけがない。 今日はその恐怖感を払拭し、越前にも楽しんで欲しかった。 「町を一周したら後で都会の方にも行ってみよう。天気もいいし眺めもきっと最高だよ!」 「…任せる」 地上を離れれば越前に成す術はない。 繋いだ手を信じ、ついて行くのみだ。 ハルは頷くと国道に沿いながらのんびりと飛んだ。 高度は約五メートル。 電線と同じくらいの高さだ。 身震いするほどではないが、代わりに建物や人は近い。 だが歩道橋を歩く人の真上を飛び抜けても、誰一人として振り返る者はいなかった。 「本当に見えてないんだな」 越前がぽつりとつぶやくと、三つ目の信号機に着地したハルが笑顔で振り返る。 「怖くない?」 「まぁ、これくらいなら。俺と飛ぶことでハルに負担はないのか?」 「うん、全然平気」 ハルは越前の腰に手を回すと、丸い指先で町の向こうを差した。 「じゃあ次はちょっとだけ速度を上げてみよう。行くよ」 にっと笑い信号機を飛び降りる。 ハルは流れる車の上を紙飛行機のように滑らかに飛び抜けた。 さっきまでが浮遊散歩なら、これは遊覧飛行だ。 街灯や屋上庭園に生える木、高い位置を通るバイパスや高速道路の看板。 地上から見上げるそれらの物は普段より二回りは大きく、触れそうな近さで通り過ぎて行く。 いつもと違った角度から見下ろす町は、まるで別世界のようだった。 十二階建てのマンションを垂直に上がると、風に煽られて飛んだバスタオルをハルの手がひょいと掴んだ。 それを元のベランダに掛け直し、旋回してはまた気ままに景色が流れて行く。 時には屋上に立てかけられた大きな看板の裏側を覗き込み、時には工事現場で組まれた鉄骨を渡り歩き、伸びてくるクレーンの一番上に着地しては楽しそうに笑う。 まるで公園で遊ぶかのように自然なハルに、越前はひとつ理解した。 ハルは、の住人なのだ。 見えない翼があることが当たり前で、幼い頃から大地と空の間で育ってきたのだろう。 「そうだ。あそこにも行こう!」 とっておきを思い出したハルは、越前を連れていつもの小山に向かった。 「あそこ!あの小山は俺の秘密の近道なんだけど、綺麗な池もあるんだ」 「池?」 「うん。周りが草だらけで普通の人が遊ぶのには向いてないけど、俺なら大丈夫!」 ハルが言う池は上空から見てすぐに分かった。 そばまで降りれば、池と言うよりはちょっとした湖くらいの広さがある。 「越前、靴脱いで」 畔で越前を下ろしたハルは、さっさと靴下まで脱ぎ裸足になっていた。 地面に体重を預け、やっとひと心地着いていた越前は突然の要求に眉を寄せた。 「まさか水に入るつもりか?」 「中には入らないよ。水の上を歩くんだ」 「水の上?」 「いいからいいから」 この状況で断っても仕方がない。 かなり抵抗はあったが、越前は腹を括るとハルに倣った。 ハルは越前の両手を掴むとふわりと浮いた。 そのまま後ろに下がり、湖へと足を踏み入れる。 足裏にひんやりとした感触が吸い付くと、鏡のように凪いでいた水面が二人分の波紋を描いた。 ハルは片手を離し、言葉通り水の上を歩き出した。 それはとても不思議な体験だった。 歩いているのに、歩く感覚はまるでない。 波紋は広がるが、決して水面は乱れない。 何かに似ていると頭を巡らせれば、田んぼのアメンボに辿り着いた。 足の下を鱗を反射させた魚が通り過ぎる。 水鳥が二人を囲うように降り立つ。 湖のど真ん中で立ち止まると、完全に自然と一体化した気がした。 こんな事は初めてなのに、どこか懐かしいような心地がするのは何故なのだろう。 ハルは目を閉じ深く息を吸った。 握り直してきた手に促され、越前も瞼を下ろす。 ここはとても静かだ。 聞こえるのは僅かな鳥の声と、風が揺らす穏やかな葉擦れ、それからハルの音だけだ。 越前は久しく忘れていた「安らぎ」というものを、全身で受けとめた。
/262ページ

最初のコメントを投稿しよう!

56人が本棚に入れています
本棚に追加