*ハルのテスト勉強

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ハルの体は、昔から「音」に敏感だ。 だから音楽に浸っている時も、もしかしたら音の羅列に酔いしれているだけなのかもしれない。 そこに決まりや法則はない。 心地よいものほど胸の奥に引き込まれ、インスピレーションのままに浮かんだ鮮やかな世界に落ちていく。 でも、それも始めだけ。 慣れてしまえばその世界は泡のように消えてしまう。 越前に初めて名を呼ばれたあの瞬間(とき)、ハルは鏡のようにくっきりと空を映す水面の真ん中いた。 落とされた音は美しく広がり、透明な煌めきを優しく振り撒いた。 やはりすぐに慣れてには行けなくなったが、もしまたあの清浄な世界へ行けるのなら、それはきっと史上最高の喜びであり、それから……… * 「…ル、…ハル!」 「え…」 突然現実に引き戻され、空を映す水面が霧のように消える。 代わりに視界に入ったのは、沢山のスペルと五畳半の和室、そしてやや怒った越前の顔だ。 「人に読ませといて寝るな」 閉じられた英語のテキスト。 幼い頃からスクールに通っていたという越前に、軽い気持ちで英文を読んで欲しいと頼んだのはハルだ。 だがそのネイティブに紡がれた(おと)は、すぐにハルを極上の水辺へと導いていた。 「ね、寝てない!ちゃんと全部聞いてる!だからお願い、越前…。やめないでぇ…」 両手を組みうっとりねだられた越前は、ハルのおでこを丸めたテキストでびしりと小突いた。 「いった!」 「真面目にやらないならやめる」 「えっ!」 「続きはこの問題が終わってからだ」 投げやりに寄越されたのは、昼間は全く解けずに空白のまま置いていたプリントだ。 ハルはがっくり肩を落とすと指先でプリントを摘んだ。 越前が説明混じりに読み上げてくれた文に渋々目を通したが、すぐに己の変化に気づく。 「あ、あれ?」 さっきまでルーン文字の如く解読不可能だった英文から、次々と音が聞こえてくる。 合わせて意味が自然と脳に溶け込んでゆく。 なんだか…今ならかなり解けそうだ。 火の用心!と印刷されたハルのプラスチックのシャーペンは、少し戸惑いながらもプリントの上を滑りだした。 「ふぅ…」 一応最後まで問題を解き終えると、隣で小難しそうな参考書に目を通す越前をこっそりと覗き見た。 伏せ目がちな瞳を覆うまつ毛は細く長い。 ラフな部屋着に着替えたせいか、変わらぬ無表情でも雰囲気はぐっと柔らかくなり、仄かな色気まで香りたつ。 「越前ってさぁ…」 「ん?」 「ほんと、綺麗」 越前は眉を寄せた。 「ハル、真面目にやる気がないなら…」 「あ、ある。あります!問題全部解き終わりました!」 「全部?」 「はい!」 プリントを受け取った越前は、ほぼ正しく埋められた解答に目を見張った。 「本当にさっきまで分からなかったのか?」 「うん、全然。だから自分でもびっくりした。ってわけで、続きをお願いします!」 期待に輝くハルの顔は、見るからに勉強を促すものではない。 しかしそれなりに結果がついてくるとなれば無碍にも断れない。 斜め上な事態に追い込まれた越前は、自身の参考書を床に起き、仕方なく続きに取り掛かった。
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