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翌朝、ハルは珍しく優雅に朝食をとっていた。
いつもは軽く整えるだけのくせ毛はやたら時間をかけてセットされ、シワのついたシャツにはきちんとアイロンが当てられている。
「行ってきます」
台所で慌ただしく動く母の背中に爽やかな挨拶を残して家を出る。
ハルはボロボロの自転車を横目に、駅へと歩いた。
余裕を持った電車通学で学校に着くと、いつも通り教室へ向かう。
窓際の席に腰を下ろし、一限ずつ持ち物をチェックして整える。
生徒たちは特に誰もハルを気にしていなかったが、教室へ入ってきた瓏凪はその雰囲気の違いにすぐに気付いた。
「よぅ、ハル。朝から勉強の準備してるなんて珍し…」
目が合った途端に言葉が途切れる。
真っ直ぐ見上げてくるハルの瞳が、いつもと全く違うものだったからだ。
「…ハル?」
「おはよう瓏凪。今日もいい男だね」
極上スマイルで言い放つ。
優雅な手つきで教科書をしまったハルは教室内をゆっくり見回した。
「瓏凪ってさ、好きな子はいないの?」
「…は?」
「そのシンプルな時計もかっこいいよね。左耳のピアスは誕生石なの?この香りは何を使ってるの?」
「は、ハル!?お前一体どうしたんだ!?」
「え?」
ハルはきょとんとした。
その顔ですらいつもと違う。
瓏凪は緊急事態を察すると、遅れて教室に入ってきた越前をすぐに引っ張ってきた。
「何だよ、瓏」
「いいから見てくれ!!ハルがおかしくなっちまった!!」
「ハルが?」
越前はスマホでバイトの求人情報を眺めているハルを見下ろした。
「ハル」
「あれ?越前、おはよう」
作り上げた愛想の挨拶。
普段のハルなら絶対にしない小技だ。
越前は顔をしかめるとハルの肩に右手を置いた。
僅かな沈黙の後に目を見張る。
「…何か、入ってるな」
「入ってる?」
ハルは既に二人から意識が離れ、熱心に求人情報を見ている。
画面に躍るのはお洒落カフェ、夜景の素敵なダイニングバー、粋な浴衣で出迎える老舗の旅館。
「待て!!ちょっと待てハル!!バイトはいいとしても、なんかハードル高くないか!?」
「え?だっていい感じの制服とか着たいし…」
「制服!?」
ハルのウェイター姿を想像した瓏凪は目を瞬かせた。
「案外いいかも」
「瓏…」
越前に肘で小突かれハッとする。
瓏凪は一つ咳払いをするとハルのスマホをひょいと取り上げた。
「とにかく。早まって今応募したりするなよ?」
「瓏凪、返して」
ひんやり笑うその顔は越前似。
「や、やめろハル!!おまえはそんな顔覚えないでくれ!!」
本気で懇願すると、ハルはまた小首を傾げた。
そうこうしているうちに始業ベルが鳴り響く。
瓏凪は心配で仕方がなかったが、越前に引きずられて席に戻った。
「越前、ハルは大丈夫なのか?」
「しばらくは様子を見るしかない。アレが抜けてから話を聞こう」
「ちゃんと戻るのか?」
「分からないが、一過性のものだと思う」
揃ってハルを見れば、涼しい顔で教科書を開いている。
まだ先生が到着していないにも関わらず予習に勤しんでいるようだ。
平和ながらもかなり奇妙な光景である。
二人は休み時間の度に話しかけたが、やたらイケメンと化したハルに困惑するばかりだった。
四限目の終わり頃。
その時は唐突に来た。
難解な数式を書き写していたハルは、一区切りついたところで吐息をこぼし、黒板の上の時計を見上げた。
その視界が一瞬大きくぶれる。
今の今まですっきりと伸ばされていた背中が、丸く小さくなった。
「…あれ?」
ぱちぱちと目を瞬かせながら手元のノートを見下ろす。
ハルは挙動不審になると、あちこち自分を触りだした。
最後に窓から空を見上げると、がっくりと肩を落とす。
「や、やっちゃった…」
その顔は完全にいつものハルだった。
今朝からの自分をふり返り、恥ずかしさで泣きたくなる。
…やはり、全く治ってなどいなかった。
これこそハルの抱える非常に厄介な問題。
究極の入り込み体質。
引き金はいつも疎らであるが、大概絡んでくるのは音楽と映像だ。
意識が引き摺り込まれたが最後、見ていたものに完全に入り込んでしまう。
しかも元に戻った時に全てをクリアに覚えているのがまた辛い。
ついさっきまで昨日見ていたドラマの主人公そのものだった自分を思うと、顔から火が出る恥ずかしさだ。
越前と瓏凪は、とても困った顔をしていた。
それもそうだろう。
今回はまだ軽度だったとはいえ、明らかに別人の相手をさせられたのだから。
「…」
やっぱり、無理だ。
無理なんだ。
上手く説明なんて、とても出来ない。
チャイムが鳴り授業が終わると、ハルは弁当を掴み逃げるように教室から飛び出した。
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