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屋上から一番近い部屋となると、やはりあの音楽室だ。
越前は階段を降りると迷わずその扉をくぐり、生徒用の長椅子に瓏凪を座らせた。
「悪い二人とも。ちょっと休んだら大丈夫だから」
「う、うん」
ハルも手を離すと、何となく警戒して辺りを見回した。
以前落とした肖像画はまだ床の上でバラバラになっている。
不安げなハルに、越前はすぐに気づいた。
「どうした?」
「ううん…」
思い出したくもないし、話したくもないことだ。
元気のないハルはその場にしゃがみ込んだ。
「ごめん。俺、二人には言えないことが沢山ある」
どうにか言葉を選ぼうと、鈍い頭を懸命に使う。
「それにあんまり自覚はないけど、どうも周りをイライラさせちゃうみたいで。これからも多分、一緒にいたらすごく迷惑かけると思う」
広い音楽室に染みる、懺悔のようなか細い声。
沈黙に責め立てられているようで、俯いた顔は上げられなかった。
「…だから?」
息苦しい静けさを破ったのは瓏凪だ。
「だから、ハルはもう俺も越前もいらないって事か?」
ちがう、と。
言いかけた言葉を噛み砕く。
いつもなら簡単なことだった。
離れても追い縋らず、捕まえようとする手はすり抜ける。
その時相手がどんな顔をしていたのかすら、気にする事もしなかった。
それなのに……。
ハルが床を見つめたままどうしても動けずにいると、ポーンと澄んだ音が響いた。
驚いて顔を上げると、蓋を開いたままのグランドピアノの前に越前が立っていた。
「俺だって、ハルに言えない事くらいあるぞ」
越前は慣れた動きで簡単な音色を響かせた。
調律されていない古いピアノは少し外れた音を出したが、繊細な指が豊かな旋律を紡いでいく。
「越前、ピアノなんて弾けるんだ」
「意外だろ?」
明るい音色は聴き馴染みのいい曲へと変化した。
「あ…」
世界的に有名な洋画の主題歌。
しかも難易度の高いジャズアレンジだ。
普段の物静かな越前が立ちながら弾く姿は何だかかっこいい。
見惚れていると、今度はその音色に流暢な歌詞が乗った。
瓏凪だ。
ハルは音に導かれるように目を閉じた。
弾けもしないのに指先が動き、歌詞も分からないのに歌いだす。
身体中を幸福が満たし、何もかも忘れて重なる音に溶けていく。
充分な余韻を残しながらピアノが終わると、極上の夢から覚めたかのようにうっとりと目を開いた。
「はぁ、気持ちいい」
越前と目が合うと思わず立ち上がり、大興奮で食いついた。
「越前、お願い!!越前も歌って!?」
あの麗しい英語で歌われたら死んでもいい。
だが越前はピアノから離れるとそっけなく言った。
「嫌だ」
「えっ、えぇええぇ!?」
断られるなんて微塵も思ってなかったハルは本気で叫んだ。
「なんで!?」
「歌えないから」
「ええ!?うそだ!!」
「嘘ついてどうするんだ」
「勿体無い勿体無い勿体無いー!!」
「ハル、顔…」
「いてっ」
越前は緩みきったハルの頬を摘み上げた。
それでもハルは諦めない。
「越前さまぁ」
「そのねだり方をやめろっ」
「お願い、一回だけぇ」
「出来ないものは出来ない」
「そこを何とかぁ」
しつこく絡んでいると、瓏凪が盛大に笑いだした。
「そ、そうだな。俺も聞きたい。ふふ、ハル、押せ押せ」
「瓏…!」
思わぬ方向に飛び火した越前は顔をしかめたが、瓏凪はハルに明るく言った。
「ハル、越前は手強いぞ。毎日諦めずに口説き落とすんだ」
「よ、よーし!!」
思わず意気込んだハルは、さり気に含まれた「毎日」に気付いた。
「あ…」
顔を上げると、二つの温かな眼差しがハルを迎え入れる。
「あの屋上、なかなかいい場所だったな。俺らもたまには弁当でも買ってあそこで食べようぜ」
「本格的な夏日になるまでならな」
「ハルを見習えよ。越前はもうちょっと日焼けしてもいいと思うぞ」
「俺は日に焼けても赤くなるだけだ」
何気なく交わされる会話の中には、ハルの居場所がちゃんと含まれている。
この二人なら…もしかして。
「じゃあ、明日はみんなで屋上へ…」
新しい可能性を信じ、ハルはおずおずと二人の間に一歩を踏み出した。
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