*ハルの体質

5/5
前へ
/265ページ
次へ
屋上から一番近い部屋となると、やはりあの音楽室だ。 越前は階段を降りると迷わずその扉をくぐり、生徒用の長椅子に瓏凪を座らせた。 「悪い二人とも。ちょっと休んだら大丈夫だから」 「う、うん」 ハルも手を離すと、何となく警戒して辺りを見回した。 以前落とした肖像画はまだ床の上でバラバラになっている。 不安げなハルに、越前はすぐに気づいた。 「どうした?」 「ううん…」 思い出したくもないし、話したくもないことだ。 元気のないハルはその場にしゃがみ込んだ。 「ごめん。俺、二人には言えないことが沢山ある」 どうにか言葉を選ぼうと、鈍い頭を懸命に使う。 「それにあんまり自覚はないけど、どうも周りをイライラさせちゃうみたいで。これからも多分、一緒にいたらすごく迷惑かけると思う」 広い音楽室に染みる、懺悔のようなか細い声。 沈黙に責め立てられているようで、俯いた顔は上げられなかった。 「…だから?」 息苦しい静けさを破ったのは瓏凪だ。 「だから、ハルはもう俺も越前もいらないって事か?」 ちがう、と。 言いかけた言葉を噛み砕く。 いつもなら簡単なことだった。 離れても追い縋らず、捕まえようとする手はすり抜ける。 その時相手がどんな顔をしていたのかすら、気にする事もしなかった。 それなのに……。 ハルが床を見つめたままどうしても動けずにいると、ポーンと澄んだ音が響いた。 驚いて顔を上げると、蓋を開いたままのグランドピアノの前に越前が立っていた。 「俺だって、ハルに言えない事くらいあるぞ」 越前は慣れた動きで簡単な音色を響かせた。 調律されていない古いピアノは少し外れた音を出したが、繊細な指が豊かな旋律を紡いでいく。 「越前、ピアノなんて弾けるんだ」 「意外だろ?」 明るい音色は聴き馴染みのいい曲へと変化した。 「あ…」 世界的に有名な洋画の主題歌。 しかも難易度の高いジャズアレンジだ。 普段の物静かな越前が立ちながら弾く姿は何だかかっこいい。 見惚れていると、今度はその音色に流暢な歌詞が乗った。 瓏凪だ。 ハルは音に導かれるように目を閉じた。 弾けもしないのに指先が動き、歌詞も分からないのに歌いだす。 身体中を幸福が満たし、何もかも忘れて重なる音に溶けていく。 充分な余韻を残しながらピアノが終わると、極上の夢から覚めたかのようにうっとりと目を開いた。 「はぁ、気持ちいい」 越前と目が合うと思わず立ち上がり、大興奮で食いついた。 「越前、お願い!!越前も歌って!?」 あの麗しい英語で歌われたら死んでもいい。 だが越前はピアノから離れるとそっけなく言った。 「嫌だ」 「えっ、えぇええぇ!?」 断られるなんて微塵も思ってなかったハルは本気で叫んだ。 「なんで!?」 「歌えないから」 「ええ!?うそだ!!」 「嘘ついてどうするんだ」 「勿体無い勿体無い勿体無いー!!」 「ハル、顔…」 「いてっ」 越前は緩みきったハルの頬を摘み上げた。 それでもハルは諦めない。 「越前さまぁ」 「そのねだり方をやめろっ」 「お願い、一回だけぇ」 「出来ないものは出来ない」 「そこを何とかぁ」 しつこく絡んでいると、瓏凪が盛大に笑いだした。 「そ、そうだな。俺も聞きたい。ふふ、ハル、押せ押せ」 「瓏…!」 思わぬ方向に飛び火した越前は顔をしかめたが、瓏凪はハルに明るく言った。 「ハル、越前は手強いぞ。毎日諦めずに口説き落とすんだ」 「よ、よーし!!」 思わず意気込んだハルは、さり気に含まれた「毎日」に気付いた。 「あ…」 顔を上げると、二つの温かな眼差しがハルを迎え入れる。 「あの屋上、なかなかいい場所だったな。俺らもたまには弁当でも買ってあそこで食べようぜ」 「本格的な夏日になるまでならな」 「ハルを見習えよ。越前はもうちょっと日焼けしてもいいと思うぞ」 「俺は日に焼けても赤くなるだけだ」 何気なく交わされる会話の中には、ハルの居場所がちゃんと含まれている。 この二人なら…もしかして。 「じゃあ、明日はみんなで屋上へ…」 新しい可能性を信じ、ハルはおずおずと二人の間に一歩を踏み出した。
/265ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加