*笠井ハル

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長かった初日は、とりあえず最後まで何事もなく平和に終わった。 それでも疲れ切ったハルは机に突っ伏し、心の中でやっと帰れると呟いた。 だがその見通しは甘く、担任の大島はハルを呼びつけ、今からこの学校について説明するという。 暴挙だ…。 ハルはまたもや心の中でつぶやく羽目になった。 いかにも世話焼きといった四十絡みの女教師が、一刻も早く帰りたいハルを連れ回す。 「…というわけで、笠井さんも早く学校に馴染めるといいですね」 「は、はい」 「あ、言い忘れていましたが、旧校舎には立ち入り禁止の場所もあります。床が腐って危険ですから絶対に入らないでください」 「はい…あの」 「何ですか?」 「俺そろそろ…」 今日一番の思いきりで切り出す。 窓から覗く日はすっかり傾いているのだ。 担任はハルの言いたいことに気付くと、豪快に笑いながら調子良く肩を叩いてきた。 「あらやだ。喋りすぎちゃったわね。そうね、早く帰りなさい」 「はい!」 「また明日ね。笠井さん、さようなら」 「さよなら」 勢いよく頭を下げると脱兎の如くその場を立ち去る。 「廊下は走らないように」と担任の声が追ってきたが、構わず階段を駆け降りた。 下足室まで速度を落とさず、靴も大急ぎで履き替える。 自転車置き場から赤いマウンテンバイクを引っ張り出し、ようやくハルはゆっくりと息を吐いた。 「はぁ、やっと解放された」 校門を抜ければブラスバンドの鳴らす、ぷぁーと抜けた音も遠くなる。 押していた自転車にまたがり、帰りは国道目指してペダルを踏んだ。 道路を行き交う沢山の車。 奥まった敷地の中に建つ市立病院。 学生の出入りが目立つ本屋。 看板のライトが灯り始めた飲食店。 町の景色がゆったりと流れ、全てが等しく茜色のヴェールに包まれていく。 赤く伸びる雲に、ハルは何か言いたげな目を細めた。 町と町の境目を越えて国道から離れれば、景色はがらりと変化した。 葉の生い茂る山が増え、住宅地の先には田んぼが緩やかに広がっている。 橙と混じる若い緑が目に優しい。 車輪のそばで心地いい豊かな水音が跳ね返った。 溜池から引かれた用水路だろう。 歩道を彩るのはツツジとサツキ、そして風に揺れるハナミズキ。 土の匂いに仄かに混じる蜜の香りは、幼い頃の祖母との記臆を引き出した。 今が散歩の途中なら、ハルは迷わず目を閉じ、もっと鼻先に神経を集中させたことだろう。 「きもちいい」 少しずつ、ハルの五感が花開きほどけていく。 この時間帯なら尚更敏感に。 こんな時に狂おしい程に思うことはただ一つ。 「飛びてぇ…」 はちきれそうに膨らみ、行き場を探すハルの思いが薄くあけた唇からこぼれ出る。 代わりに胸の空白を埋めるように、細く長く酸素を吸い込んだ。 触りたい。あの雲に。 日の沈む空が、ハルの音にならない声を受け止めた。 自転車は明かりの少ない方へと車輪を向け田んぼを目指した。 大幅な寄り道だ。 力を込めてペダルを踏むうちに、まだ植えたばかりであろう細い苗たちが視界いっぱいに揺れた。 撫でるような湿気に誘われ、サドルから降りると畦道に入る。 踵のへたったスニーカーがつゆくさを踏んだのか、甘い匂いが追いかけて来た。 周りは既に蒼然暮色。 空と山の輪郭は混じり合い、のっぺりとした夕闇がハルの前に広がっている。 空に浮いた三日月は朧雲に覆われ、電池切れ間際の懐中電灯みたいだ。 ハルは自然と口元に笑みを浮かべた。 今から起こる事への期待が、気持ちを高揚させていく。 手に持つスマホはポケットへ。 深呼吸をしてから一番星を瞳に映す。 ゆっくりと瞼を下ろすと、その中で瞳孔が僅かに収縮した。 唐突に、ハルの足元から地面が消え失せた。 手も足も、頭も胸も、淡い光の中へと溶けながら重力から切り離されていく。 まるで蒼い洞窟に満ちた、どこまでも深く透明な水の中へ落ちたみたいだ。 ……来る。 胸の奥底にまで明かりが差すと、ハルは自分の体が急速に浮かび上がる実感を得た。 淡い光は瞬時に掻き消え、代わりに渦巻く風がハルを空へと押し上げる。 気温も風の匂いも、体を震わすほど冷たく変わっていく。 それでもどうしようもなく愛しさが込み上げてくるのは、大空がハルのもうひとつの故郷だからだ。 高く細くヒュウと鳴る風と共に、弱々しく感じていたはずの月明かりが眩しさを増していく。 身体中が明るい光に包まれると、ハルは閉じていた瞼をそっと開いた。 真っ先に目に飛び込んだのは、くっきりと輝く三日月。 気ままな風は、どうやらハルを雲の上まで招待したようだ。 層の薄い朧雲はつま先に触れると二つに割れた。 ハルはたっぷり開放感に浸りながら雲の下を見下ろした。 伸びやかな大地に根付くのは、ネオンが彩るハルの町。   「…この町も、好きになれるかな」 囁きが流れる雲に乗り遠くへ運ばれていく。 町は更に輝きを増し、遥か上空に浮かぶ一人の少年を静かに歓迎したようだった。
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