君の幸せを願っている

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 姉の息子を初めて抱っこした時、あぁ一生縁がないと思ってた"赤ちゃん"ってこんな感じなんだ、こんなにかわいいんだ…と思った。  思春期の真っ只中、自分のセクシャルに気づいて、静かに絶望していた頃、俺は甥っ子を日々の癒しにしていた。自分でもかいがいしく世話をしていたなぁと、しみじみ思うくらいには甥っ子を可愛がっていた。だから、出産のため里帰りしていた姉が甥っ子を連れて旦那の元に戻った時は、本当に残念に思った。それからの俺は、日々の癒しを失い、荒んでいった。学校で「彼女」の話や猥談になるたびに自分を偽るのが苦痛で、恋バナに花を咲かせる女子にイライラした。とにかく窮屈で、むしゃくしゃして、親に当たった。反抗期の息子のすることと思っていながらも、両親、特に母親は明らかに俺を持て余していた。そんな気持ちのまま、俺は高卒で就職して家を出ることを決めた。両親は反対しなかった。  就職は割とすんなり決まった。ちょっと遠い地方の工場の正社員。家賃の補助もあったからちょっといい部屋に住んだ。夜勤があったりするけど、その分給料も悪くない。実家までは電車で3時間。新幹線なら半分。でもたぶん帰らないだろうなぁとうっすら思った。そして事実俺は実家とは没交渉になった。連絡も取り合わないし、一度も帰ることがないまま時が過ぎた。 以前までの人間関係を捨てて一人暮らしを始めて、俺は随分気楽になった。同性愛者向けのマッチングアプリを使って童貞も処女も捨てた。彼氏もできたけど、男が好きだなんて会社にバレたら困る。気持ち悪い、そんな目で見てたのか、一緒にロッカールームなんか使えないなんて言われたら仕事なんて続けられなくなってしまう。そう思ったら、外では恋人らしいことはできなかった。  そんなある日、姉から電話がかかってきた。 「あのくそ男と別れる!」 開口一番何事かと思えば、そのままマシンガントークは続いた。 「くそ男(夫)のモラハラがあまりにひどくて、ムカついたから実家帰るって言ったら、『そんなことしてお前一人でどうやって生活するんだ?』とか『子どもが可哀想だとおもわないのか?』とか『子どもには父親が必要だろ』とか言いやがって、その父親は毎日同僚と飲み歩いて、帰って来ない上に、時々おむつ変えたり、遊んであげたら育児してる俺偉いだろムーブしてきてさ!夜泣きの対応も!離乳食の準備も!貴様の食事の準備も!その他家事も!全部私の仕事だコラ!だいたいなぁ!お前が『食費が増えたなぁ』とかぼやいてたその食費は子どもの分だぞ!?ばかか!ちなみにお前の『嫁は常に綺麗でいてくれなきゃ』とかいう意味不明な要求にしたがってしている化粧はな!買う金が足りないから実家から援助してもらったわ!この子産むためにバイト辞めたからな!このクソ野郎!!って思ってさ、家出してきた。離婚届書いてってメールしたらなんか死ぬほど長い謝罪?いやこれ謝罪してないな。言い訳メールが届いたけどキモいから、とにかく離婚してくれって言ってるんだけど、なんか、離婚はしない!の一点張りで面倒で、ってのはどうでもよくて、んで、私今リント連れて実家帰ってんだけど、あんた家出てから全然帰ってきてないらしいじゃん!たまには帰りなさい!それに、あんた子どもの世話得意でしょ。リントの面倒見てくんない?」 言いたいことは、『帰ってきて甥っ子の面倒を見ろ、この親不孝者』だろうか。正直家には帰りたくない。でも甥っ子には久々に会いたい。  その週末、俺は気づくと実家の前に立っていた。久々に会った甥っ子、リントはあんなに小さな赤ん坊だったなんて思えないほど大きくなっていた。でもまだ小さい。 「いくつだっけ?」 「来月4歳の誕生日よ。」 「もうそんなに経つのか…」 なんて話す間、リントは姉の後ろに隠れて俺を見ていた。 「俺のこと覚えて…るわけないか」 そう言って笑う。久々の実家、両親とは相変わらず距離があったけど、甥っ子の存在は大きいかった。子は鎹ってほんとその通りだな。なんて自分の子でもないのに思った。  俺は予定のない休みの日になると、実家に顔を出すようになった。リントは、いつだって無邪気な笑顔で俺を迎えてくれた。このまま無垢で、苦しいこととかつらいことなんて何も知らずに育って欲しい。健やかに育って、当たり前に可愛い女の子を好きになって、やりたいことやって、仕事して、結婚して、子どもをもうけて…そういう普通に幸せな生き方をしてほしい。別に俺自身に後ろ暗いことがあるわけじゃない。そもそも隠しているから、同性愛者であると差別を受けたこともないし、自分のセクシャルを否定したいわけでもない。何なら彼氏いるし。だけど、この天使のような甥っ子には余計な苦労なんかしてほしくない。だから、できることなら真綿でくるんで大切にして、時が来たらただただ幸せで素敵な、普通の恋愛をしてもらいたい。ーーなんて分不相応なことを考えたからだろうか。  仕事中に突然の電話。 「はい」 「サトウシンさんのお電話ですね。警察です。落ち着いて聞いてくださいーー」 何を言われたのか理解できなかった。  姉の夫が、俺の実家に押し入って両親と姉を包丁で刺した後、放火した。火事の通報で警察と消防がかけつけ、消火。両親と姉、そしてリントは病院に搬送されーー  家にいた家族のうち、リントだけが無事だった。姉が庇ったらしい。リントは血まみれで、だけど軽い火傷だけで保護された。実家は全焼した。近隣の家に燃え広がらなかったのが幸いだった。幼いリントと、若造の俺だけが取り残された。  呆然としていられたのはほんの少しの間だけだった。葬儀の手配や慣れない行政手続きに悪戦苦闘し、その合間に、他人の家の事情に興味津々のマスコミに対応する。そして、本当にくそ男だった姉の夫の裁判。その他いろいろなことに追われて、俺は必死になった。四十九日が過ぎて、俺はようやくリントとゆっくり向き合って話す時間を手に入れた。  俺がこれからのことを話すと、リントは何に対しても、にこにこと物分かりよく「うん!」とうなずいた。そういえば……あの事件からこっち、リントは泣いていたか?思い出せない。病院から帰ってきた夜、書類を書いていた俺のところにきて、「シンにいちゃん……」って俺の服を引っ張った時、リントはどんな顔をしていたっけ?悲しそう?さびしそう?わからないけど、泣きそうな顔だった。でも、泣いてはいなかった。葬式の時も、ずっとうつむいてて――  にこにこするリントを前に俺は愕然とした。何よりもこの子を大事にしようと思ったはずだったのに、声を上げて泣いているのをみた記憶がない。きっと俺なんかよりずっとつらいはずだ。なのに、こんなに無理をさせてしまった。俺は慌てた。なんとしてもこの子を幸せにしなければならない。それは故人に対する使命感でもあり、自分への強迫観念でもあった。俺は、リントの幸せのために生きるんだ。
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