1.初めての一人旅

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1.初めての一人旅

 先天的な「鉄」。  生後三ヶ月、昭和四二年=まだ東京に「都電」が走っていた。母親が僕を乳幼児検診に連れて行こうとすると、しばしば僕は機嫌を損ねていた。ところが、僕をおぶった母親が「都電」に乗ると急に機嫌が良くなっていたという。  初めて覚えた言葉は、多分「やまてせん」、当時の山手線は黄緑色のペンキ塗り。それが、たいそうおな気に入り。  小学一年生で兵庫県西宮市に転居してからは、同じ社宅に住む上級生に連れられて、阪急今津線と阪神本線を乗り継いで西宮市立図書館に行ったりもした。所詮市内数駅の移動だったから「旅行」という感覚はなかった。  そんな僕が一人で「鉄道旅行」に出たのは一三歳の秋。一九七九年一〇月、日曜。  まだ僕は腕時計を持っておらず、母親から婦人物の腕時計を借りた。母親には「国鉄福知山線の旧型客車に乗りに行く」と伝えた。  旧型客車というのは、簡単に言うと「かつて蒸気機関車の後ろに連結されていた、乗客が乗る車両」である。今や「機関車トーマス」の会社とも呼ぶべきであろうか大井川鐵道の、蒸気機関車の後ろに着いている古い車両。それが「旧型客車」。  僕の家から最も近い「旧型客車に乗れる駅」は国鉄宝塚駅。一九七九年の宝塚駅は、まだ駅ビルではなかった。石造りの小さな駅舎。国会議事堂を縮小したような造形。待合室には背の高い大きな木造のベンチが並んでいた。ハイキングに行くらしい軽装の家族連れでベンチは埋まっていた。  出札窓口(切符売り場)では駅員が切符を手売りしていた。厚紙に凸版印刷で刷った小さな厚紙の切符。駅員が収納棚からすっと一枚抜き取りカシャンと印字機に通す。すると日付が刻印されて切符として有効になる。当時は都市部を除けばよく見られたシステム。  窓口には長い列が出来ていた。家族連れが多い。一人旅は僕だけ。多分。  旧型客車に乗るのは初めてではなかった。家族で武田尾までハイキングに行ったことがあった。それで僕は、ここに旧型客車が走っていることを知った。  で、今日の僕はいったい「どこに行くのか?」「どこへ行けばいいのか?」  宝塚駅の出札窓口に並んでいた僕は、実を言うと、まだ、下車駅を決めかねていた。  自動販売機でない窓口で切符を自分で買うというのは、実は初めて。中学一年。僕は痩せていて小柄。「どこに行くんや?」とか詰問されないだろうか?こんな奴が窓口に並んでいて良いのだろうか?とはいえ並ばねば切符は買えない。  いやそれより問題は行き先。武田尾。家族でハイキングに行ったことがある。そこまでなら楽勝。どうってことない。だが、ちょっと冒険してみたい。  藍本。なんとなく魅力的な駅名。しかし、そこまで行く自信がない。いや、列車に乗れば誰でも簡単に行ける。だが、見知らぬ駅名がバリアを張っていた。そんな所まで行ってしまうと誘拐犯に連れて行かれたり、あるいは逆に、家出少年として警察に連行されるような気がする。どちらかというと誘拐犯より警察の方が怖い。誘拐ならば被害者だが、家出は非行少年。  相野。藍本よりは近い。ここもまた、どこか遠いところを思わせる響きの駅名。シンプルな駅名が逆に不気味。迷っているうちに列は進み、僕は出札窓口の前に立っていた。 「藍本まで」  僕は意外にも、より遠い藍本の名を出札係員に告げていた。小さな切符が発行され、僕は現金と引き換えにそれを受け取った。  で、藍本。やっぱり、怖い。  僕は再び出札窓口に並んだ。行き先変更。 「あの、すいません、この切符、道場までに変更してください」  出札係員は無言で切符を回収した。そして道場までの切符を再発行し、差額を返金した。国鉄の乗車券は使用前に限り一回だけ無料で行き先を変更できる。そういうルールを僕は知っていた。ようするに「頭でっかち」。道場という駅名は、柔道とか剣道みたいで、スポーツ嫌いの僕には今ひとつ好きになれない駅名ではあったが、行き先が近くなったことで安心感を得た。  当時の宝塚駅は、普段は改札を締め切っていた。二〇二〇年現在、宝塚駅は自動改札。いつでもホームに入れる。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、一九七九年当時はそうでもなかった。都会の駅はともかく、列車本数の少ない地方の駅では、普段は改札を閉鎖していた。列車の発車時刻が近づくと改札口に駅員が現れ、切符にハサミを入れを始めるのだ。  で、僕の行き先問題。  切符は道場までに変更してもらった。だが、まだ「乗り越し」という手段が残されている。道場?本当にそんな近くでいいのか?疑問が湧き上がる。でも、それならいったいどこまで行けばよいのか?と思いつつも、改札口で切符を差し出す。ぱちん、と、僕の行き先が決まった。  一九七九年の宝塚駅は、高架ではなく地平にあり、三本の線路を挟んで二本のホームがあった下りホームは階段なしで駅舎に接続。上りホームに行くには跨線橋の使う。上りホームの背後に植え込みがあり、庭園のようになっていた。下りホームと上りホームの間には、ホームのない線路があった。これは貨物列車が旅客列車を待避するための線路だった。プラットホームは低く、石積みだった。福知山線の建設は明治期。阪鶴鉄道という私鉄として開業して、後に国有化された。一九七九年当時の宝塚駅は、阪鶴鉄道時代とほとんど変わっていなかったのだと思う。  やがて列車が轟音を上げて下りホームに入ってきた。  宝塚駅発一〇時五五分、米子行七二三列車。初めての一人旅に選んだ列車。  轟音を立てていたのは先頭の機関車DD五一。「蒸気機関車」のD五一、ではない。ディーゼルエンジン二基搭載。蒸気機関車の置き換えに大いに貢献するも、鉄道趣味の世界では、まるで蒸気機関車を追い出す鬼のような扱いを受けたという……重低音で二基のエンジンをかき鳴らして通過すると、後に続く旧型客車は驚くほど静か。空気ブレーキの鳴らす風の音。ゆっくりと停車した旧型客車は手動ドア。開けっぱなしが多い。もちろん、という言い方はあまりしたくないが、転落事故も時々発生していた。  七二三列車の座席は家族連れのハイカーで一通り埋まっていた。一人分くらいの空席はありそうだっがた、それでは余所の家族に割り込むようで悪い。  僕はデッキに立った。それもまた楽しみの一つ。開け放った手動ドアから縦長の風景を眺める。  発車時刻となり、ポーという短い汽笛が響く。縦長風景の宝塚駅が滑り出す。旧型客車の加速は緩い。少しずつ、そろりそろりと加速する。そうしないと連結器が衝撃を発するという事情もあった。客車はカーブで車輪を軋ませる。緑の多い沿線。山腹を貫く中国縦貫道の赤い橋桁が目立っていた。  宝塚の次、生瀬駅を出ると「福知山旧線」に入る。「福知山旧線」は正式な名称ではない。現在、福知山線は篠山口まで一九八六年に、生瀬から道場までの急曲線の多い旧線路を廃止して、直線的なトンネルで山を貫通する新線に切り替えられた。  「福知山旧線」は単線非電化。武庫川渓谷に沿う隘路を、短いトンネルや鉄橋で繋ぎながら、時速六〇キロくらいで走っていた。いや四五キロだろうか?ゆったりとした歩みだった。  僕が乗った旧型客車はスハ四二。スハとかオハの「ス」「オ」は重量を示す記号。「オ」は定員乗車時におおむね三五トン前後となることを示す。「ス」は四〇トン前後。「ハ」は普通車、もしグリーン車なら「ロ」。  スハ四二は戦前に設計されたオハ三五系の改良型。軍事技術を平和産業に転用して乗り心地を改善した。天井は高い。車内には木枠のボックス席が八〇名分並んでいる。車内放送のスピーカーは、客室入り口の上に二つだけ。音は大きい。低音のよく出るスピーカーで、車掌の声に深みが感じられた。  それから僕は、編成全体を歩いてみた。九両編成だったと思う。座席はハイキングに行く人で埋まっていた。客車はオハ三五系とスハ四三系。スハ四三はスハ四二をさらに改良した客車。急行列車用という位置づけで、ボックス席がやや広い。背もたれは下半分が斜めにふっくらとしている二段式。そのあたりは「急行」の風格だ。オハ三五やスハ四二の背もたれは垂直に切り立った一枚板に薄いクッションを貼っただけものだった。  どの客車も車内はクラシックな造り。ずらりと並んだボックス席。壁はクリーム色のデコラ張りもあったが、木目の板張りにニス塗りという客車もあった。照明もクラシック。透明なガラスケースの中に細いフィラメントがオレンジ色の光を放つ……工芸品のようだが、要するに昔の「白熱電球」である。LEDより電力を要する、今となってはむしろ贅沢な照明。蛍光灯を装備した客車もあったが、丸形のサークライン。かすかにキーンという高周波ノイズが聞こえた。客車探検は楽しい。そうこうしているうちに列車は生瀬駅に着いた。  ゆったりとした加速で生瀬駅を後にした七二三列車は、後に廃線となる福知山旧線へと踏み込んでいく。一八九九(明治三二)年開通。当時の土木技術では長距離トンネルや長い鉄橋は難かしかった。そのため線路は、ぐねぐねうねる武庫川渓谷に沿って、おなじくぐねぐね続き、たまに短いトンネルや鉄橋を抜ける。カーブが多く速度制限が厳しい。武庫川上流、渓流岩を食む風景の中、そろりそろりと列車は進む。僕はスハ四二のデッキに戻り、縦長に切り取られ風景を眺めた。短いトンネルに入ると、機関車からほんのりとディーゼルエンジンの排気が香った。鉄橋を渡ると、線路を透かして川面が見えた。  幾つ目かのトンネルを抜けると、ブレーキのエアを抜きながら武田尾駅に停車。生瀬駅から次の武田尾駅まで一駅十五分くらい。二〇二〇年現在と比較すると二倍を要していた。  武田尾駅で大勢のハイキング客が下車し、客車はがらんとしてしまった。僕はスハ四二の客室に入り、座席に腰を下ろした。ワンボックス独り占め。ぷうんと煙草の匂いがした。長距離列車ではタバコが吸えるのが当然だった一九七九年。  機関車が再び短い汽笛を鳴らすと、列車は武田尾駅を静かに滑り出した。  ここから先が初めて。  短いトンネルと鉄橋をいくつか抜けると列車は速度を上げた。渓流沿いの隘路を抜け、平坦線に出た。僕はぐんぐん知らない場所に連れて行かれる、いいのだろうか?誘拐されないだろうか?家出少年として警察に補導されないだろうか?  スハ四二は座席の枠や壁が木製でニス塗りだった。壁の木目は迷宮のよう。  落ち着かない気持ちで僕はトイレに立った。本来白かったであろう便器は象牙色にくすみ、タイル張りの床の目地には、汚れが染みついていた。かつて長距離列車として激務に就き、無数の乗客から長旅の苦痛と疲労を目地一杯に呑み込んでいる。便器は垂れ流し式、便器を通して線路が見える、バラスト(線路を支える砂利)が滝のように流れ見える。まあそういうものがあることは知識としては知っていたが……僕はそそくさと用を済ませると洗面所に向かった。ここも冴えない色のタイル張り。古びた陶器の洗面器には真鍮製の蛇口。金色だったはずの蛇口は傷だらけになって腐食を思わせる色をしている。神経質な僕には、手を洗っても少しも綺麗になった気がしない。  列車は道場駅に着いた。着いてしまった。下車、下車、下車……できない。しかしまだ「乗り越し精算」という手段がある。この先まで行くことは出来る。何がある?わからない。誘拐、家出、補導……ある意味誘拐の方が怖くない。誘拐なら被害者だが、家出や歩道は「非行少年」になってしまう、が、僕は下車しなかった。先に行きたい、対、今すぐ下車したい、思いは交錯したが、僅差で「先に行きたい」。  道場駅を発車すると、七二三列車はさらに速度を上げ、ギャロップを始めた。旧型とは言え客車の最高速度は時速九五キロ。それに近い。スハ四二のクラシックなインテリアも、もはや目に入らない。どこに行く、どこへ、怖い……道場駅の次、三田駅に列車が滑り込むと、反対のホームに上り列車が停車していた。  「これしかない!」  声を挙げて僕は七二三列車を飛び降りた。  そして三田駅の改札で乗越精算を済ませると出札窓口に直行した「宝塚まで」。往路に比べて復路の切符を買うのは簡単。そして改札口で切符を切ってもらい、跨線橋を一段飛ばしで駆け上る。発車数秒前。上り列車に飛び乗った。そして空いているボックスを見つけてそこに腰を下ろす。列車はゆるりと三田駅を後にするところであった。  で、僕は一体何をやっているのだろう?  上り列車も軽やかな足取り、で、元来た道を戻っていく。戻っていく。うーん……。  こうなると逆に心に余裕が出来てきて、やっぱりもう少し先まで行っておくべきだったかなあ、などと思い始めてしまう。乗車した客車はナハ一〇。「ナ」は定員乗車時三〇トン前後を意味する。つまり、車両そのものが軽い。昭和三〇年代に製造された客車で、当時最先端であったスイスの軽量客車を参考に設計された。窓が広く見晴らしが良い。壁面はクリーム色のデコラ張り。明るく清潔感がある。難点は、バネが少し硬くてスピードを出すと乗り心地が落ちることか。  列車が道場駅まで戻り、さらに戻って武庫川渓谷の隘路まで戻ってくると、心の余裕がますます大きくなってきた。「このまま帰るのは惜しい」。何というお天気野郎。短いトンネルを抜け、鉄橋を渡って武田尾駅まで戻ってきたとき、僕は急に、この駅で降りようと思った。僕は昼飯を食べていなかった。昼飯は、母親に握ってもらった握り飯だった。どこかで食べなくては。食べずに家に戻るのはいかにもみっともない。  僕が三田駅で買った切符は、宝塚駅までの乗車券である。この乗車券は規定の距離より短いため「途中下車」が出来ない。「途中下車」というのは、乗車券の発駅から着駅までの間の途中の駅で、一時的に改札を出ることを言う。だが、奇妙な度胸が湧き出した僕は、武田尾駅で、この乗車券で「途中下車を交渉」するという妙案を思い立った。  武田尾駅で列車を降りた僕は、改札口の駅員に相談を持ちかけた。  「この切符なんですけど、次の列車まで一旦下車したいのですが、お願い出来ませんでしょうか?」  「いいよ」  交渉は意外にも簡単に済んだ。僕は礼を言って武田尾駅の木造駅舎を出た。国鉄職員というと杓子定規で頭の固い人ばかりと思われるかもしれないが、実際にはそうでもなかった。話を分かってくれる人も、実は結構いた。  二〇二〇年現在、武田尾駅は高い鉄橋の上にあり、武庫川を横断している。だが一九七九年の武田尾駅は川沿い斜面の細長いスペースにあった。ホームは曲線を描いていた。僕はとりあえず駅前の橋を渡り、対岸の、何もない空き地に新聞紙を敷いて腰を下ろした。列車が来れば眺められるはずであったが、当時の福知山線は一時間に一本あるかないか。ただただ川の流れが聞こえるばかりだった。山は紅葉が始まっていた。僕は宝塚駅を出て以来、紅葉に気づく余裕がなかった。深く息を吸い込むと、僕は握り飯を食べ始めた。  次の上り列車は二時間後にやってきた。それに乗って僕は帰った。  結局三田駅までしか行けなかった情けなさと、本来認められない武田尾駅での途中下車を勝ち取った自信。これは一体何なんだろう?こんなことをして何の役に立つのだろう?  ……  と、言う訳で、僕はもう鉄道旅行なんか止めてしまおう、との決心したのだが、決心を守ったのは三ヶ月。明けて一九八〇年一月、僕は再び鉄道旅行の計画を立てた。  行き先は決めた。篠山口。三田より相野より藍本よりも遠い。  列車は再び宝塚発一〇時五五分発七二三列車米子行。篠山口駅で上り四四四列車と行き違う。前回の三田駅のように、この列車で折り返す。誘拐犯も警察も下車しなければ関係ない。客車だって綺麗な車両を選んで乗ればよいのだ「簡単なことじゃないか!」。  相変わらずハイキング客で混雑する宝塚駅で、僕は迷うことなく篠山口までの乗車券を窓口で求めた。定刻に列車がやってくると、僕は、青い車体のスハ四三を選んだ。スハ四三は車体と台車が重く、その安定感ゆえ旧型客車史上最高の乗り心地と言われる。特に福知山客車区のスハ四三系はメンテナンスが良かった。車体は艶やかな藍色。座席は鮮やかな紺のモケット張り、内壁はクリーム色のデコラ。今回は「木目の客車」は避けた。窓枠はアルミサッシ。客室内の高い天井や、ドアを開けっぱなしで走るあたりは、旧型客車ならでは。僕には車体茶色で木目内装「本格的な旧型客車」は「味わいが強すぎる」のだ。このくらいが丁度いい。  宝塚駅を発車した七二三列車は、ゆったりとした歩みで武庫川渓谷に分け入った。季節は冬。広葉樹林の多い西日本の渓流。常緑樹が深い緑色をたたえ、半分くらいを占める広葉樹は淡紫色の枝を伸ばしていた。  谷底には岩を噛み崩れ落ちる水面。風景を見せつけるかのように緩慢な速度で列車は進む。時折汽笛が響き、短いトンネルに入る。  今回もやはり武田尾で多くのハイカーが下車し、客車から人影が消えた。定刻通りに列車は道場、三田と進む。そしてそこから先、僕にとっては未知の区間へと列車は進んでいく、などと大袈裟なことを思っているのは僕だけだろう。七二三列車は毎日走っているのだから。  沿線は低い山に挟まれた盆地のような地形で、わずかな谷底の平地には水田があった。稲穂が刈り取られ、白い刈り株が並んでいた。そんな風景をスハ四三の窓が四角く切り取る。まだ新三田駅がなかった頃で、三田の次は広野であった。広野駅は駅前広場がある程度で、商店街などない、静かな田園の駅だった。七二三列車は、僕を未知の世界へと運んでいく。  相野。藍本。似たような風情の駅が続く。僕は去年の十月、これらの駅のいったい何を恐れていたのだろう。  停車すると時折、車窓に白い湯気が立ち上った。旧型客車の暖房は、先頭の機関車から供給されるスチームを車内の放熱器で発散する方式。床下に調整弁があり、僅かに蒸気が漏れ出す。  目的地の篠山口駅に着いた僕は、どこに立ち寄ることもなく出札窓口に向かい、帰りの宝塚までの切符を買った。それともう一つ。初めて、駅の「入場券」というものを買った。入場券というのは、本来、見送りなどのためにホームに入るときに使うものだ。それを、篠山口まで来た記念に購入した。だから今でも、この旅行の日付がわかる。一九八〇年一月六日。  ……  小遣いを貯める都合もあって、毎月鉄道旅行に出るということは出来なかった。  さらに三ヶ月後の一九八〇年四月二日。僕は福知山線の「終点」を目指すことに決めた。  終点は、京都府北部の福知山駅。さらには、そこから単純に折り返してくるのではなく、山陰本線を経由して京都に出て、そこから新快速で大阪に行き、大阪梅田から阪急電車に乗って門戸厄神に戻る。大きな三角形を描くような行程。宝塚駅から乗るのは、八時三八分発七三五列車福知山行。福知山線の起点は宝塚ではない。尼崎。だから尼崎から宝塚までの区間は乗っていないことになるが、僕には「国鉄の全線に乗ろう」などという考えはなく、むしろ「気に入った場所に何度も行きたい」と思っていた。  朝の国鉄宝塚駅に来てみると、七三五列車の前に発車する、特急「まつかぜ一号」が来る時刻であった。相変わらずちょこんとたたずむミニ国会議事堂は、茶色いベンチが埋まるくらいに混み合っていた。特急に乗る人で混んでいるのだろう。  「まつかぜ一号」はキハ八〇系。クリーム地の車体に窓周りだけ濃い赤で塗り分け。国鉄の特急に多く見られた配色。昭和三〇年代に設計された特急専用の車輌。エンジンの基本設計は戦前のまま。普通車の座席は二人掛けで、回転こそするものの、背もたれはリクライニングしない。でも紺色の座席に白い布製の枕カバーが掛けてあり、風格があった。  その「まつかぜ一号」に乗り込んだ人は少なかった。待っていた人たちは、次の七三五列車らしい。  七三五列車は、その十分後にやってきた。例によって朱色の機関車DD五一の後ろに、六両の旧型客車が連結されていた。この列車にもハイキングらしい家族が大勢乗った。でも座席が全て埋まるほどではなく、空きボックスもあった。僕は編成最後尾のスハフ四二に乗車した。スハフ四二というのはスハ四三系の一員。スハ四三に車掌室とハンドブレーキを設置したタイプある。スハフの「フ」は、「ブレーキ」の「フ」。ハンドブレーキは非常用。使用されることは滅多になかったが、車掌室の向かいの部屋に大きな円いハンドルが剥き出しになって存在感を主張していた。  列車の最後尾というのは揺れが大きくなりやすいのだが、スハ四三系の重い車体ゆえ揺れは少ない。たまたまではあるが、内装が木目ではなくクリーム色のデコラ張りだったことも、僕には心地よく思えた。これですよ、これ。キレイは大切なことだ。  七三五列車もまた、ゆっくりと渓谷沿いの線路をトレースしていく。最後尾に乗ったため、カーブで編成の先頭に朱色のDD五一が見えた。斜面の木々は若芽を吹き始め、所々にヤマザクラが咲いていた。  武田尾で、やはり大勢のハイカーが下車した。そこから僕はがら空きの客車に揺られて運ばれていく。速度を上げ始め、少しだけ揺れる。高速度でどこかに運ばれていく感覚。これを楽しいと思うようになった自分に気がつく。  古市駅を出ると、少し長い車内放送があった。  「次の篠山口では、十時二十五分の発車まで、二十一分間停車いたします」  七三五列車は篠山口駅で、上りの急行列車とのすれ違いと、下りの急行列車の追い抜きを合わせて行うため、駅のはずれの線路に入って停車した。旧型客車は、モーターもエンジンもない。空調もない。だから停車すると本当に無音になる。時を止めたように車内はしんとした。僕はホームに降り立ち、背伸びをした。ざり、と、ホームに敷いてある玉砂利の音がした。  まず上りの急行列車「丹波」が向かいのホームに到着し、続いて下り急行列車「だいせん」が七三五列車と同じホームの対面に停車した。駅は急行列車のエンジンで騒がしくなり、売り子のおじさんが「べんとー」と声を張り上げた。「松茸弁当」七〇〇円、というものがあって、美味しそうなので買おうとすると、おじさんは「こっちの方が旨いで」と言って、五〇〇円の「幕の内弁当」を勧めた。  篠山口から先、未知の区間。淡々とした田園風景が続いた。  丹波大山を出てしばらくすると、線路は渓谷に入っていった。川代渓谷。篠山川に沿って形成された渓流。このルートは現在でも変わっていない。武庫川渓谷ほど長くはないが、急な流れと岩場の織りなす車窓がしばらく続いた。時刻表に風景の記載はない。僕は川代渓谷の存在を知らなかった。  下滝を過ぎると、再び田園風景が続いた。旧型客車の加速は緩やかだが、一度加速すれば時速九十五キロまで速度を上げる。長いブレーキの後の停車。訪れる静寂。最後尾に乗っていたので車掌の動作が分かった。車掌は発車のたびに、無線機で機関士と連絡を取っていた。  そうやって一駅ずつ進んでいくうちに、ついに終着駅の福知山にたどり着いた。駅の手前に急カーブがあり、列車は速度を落としてクールダウンするように福知山駅に滑り込んだ。十一時四一分。ついに「終点」に来たのだ。  一九八〇年当時の福知山駅は、まだ高架化されておらず、地平にホームが並んでいた。七三五列車は改札から一番遠いホームに到着した。跨線橋を渡り、改札のあるホームで僕は駅そばを食べた。二〇〇円だったと思う。「鬼そば」という名前だったが、出汁に薄口醤油を使った普通の関西風のそばだった。  福知山という街には特に用事がなく、十二時十五分発の山陰本線の京都行八二〇列車に乗り継いだ。鬼そばを食べ終えて八二〇列車の前に立った時の衝撃は忘れない。  全部茶色……なのである。  八二〇列車は九両編成であったが、先頭に立つ朱色ディーゼル機関車DD五一の後ろに連なるのは、全て、茶色の旧型客車であった。  車体が茶色に塗装されている旧型客車。これは「近代化改装」を受けていない、ということ。先ほど七三五列車ののスハフ四二は近代化改装を受けていた。  そもそもはといえば、国鉄の客車は茶色に塗装されていた。  車体が青に塗装されている客車が近代化改装の目印。壁がデコラ張りで、窓をアルミサッシに交換している場合もあった。  一方、茶色は、板張り木目の内装の、近代化改装を「受けていない」客車。一言で言おう、「ボロい」。初めて鉄道旅行に出た僕を怖がらせた、アレだ。うーん、という絶望感。参ったなあ、これ苦手なんだ……  だが僕は考え直した。どうせボロなら一番ボロに乗ろうと。それで選んだ車両は、オハ六一であった。オハ六一系というのは、大正期に製作された中型の木造客車から、台枠(床板の下にある鉄の骨組)や台車などの主要部品を集めて、その上に鋼製の車体を構築するという手法で製造(というか改造)された客車である。中型の木造客車五両を分解して四両分の台枠を作り、その上に鋼製の車体が載せられた。一九四九(昭和二四)年から総数一〇〇〇両以上が制作された。  オハ六一系には、当時の国鉄の逼迫した事情が濃厚に反映されていた。まず安全性の確保。木造客車は脱線転覆すると粉砕破壊して乗客を守り切れない。そして、戦後の混乱期で輸送力は致命的に不足していた、中型の木造客車の主要部品から大型の鋼製客車を生み出す。国鉄に新車を大量に作る余裕はなかった。何しろ戦災で車両の絶対数が足りない上に、予算もない、ハイパーインフレで物価急上昇。それでも国鉄は、安全性に劣る木造客車を早急に置き換え、かつ最大限輸送力を強化する決心を固めた、それがオハ六〇系、そしてその改良型が、オハ六一系であった。  オハ六一系のサスペンションは大正期のまま。内装も木造客車と同じ。鋼製客車といっても鉄で出来ているのは車体の骨組みと外側だけで、車内の壁は木目板張り。座席の背もたれも板張り。背もたれ板張りという客車は初めて。カルチャーショック。辛うじて椅子の座面にはクッションがある。ボックス席の間隔は一三三五ミリ。スハ四三系の一四七〇ミリ、オハ三五系の一四五五ミリに比べ、いかにも窮屈。オハ六一の定員は九六名。二〇二〇年現在、東海道本線東京口のグリーン車は定員九〇名。とはいえ車両は二階建て。つまり、快適性を求めるなら二階建てにしても無理な定員を平屋に詰め込んだ、それがオハ六一と思っていい。  そのオハ六一を僕は選んだ。同じ茶色でも、オハ三五やスハ四三は座席に背もたれにクッションがあるし、ボックスが広い。でも、あえてオハ六一を選んだ。でも、どうせボロいなら、徹底的にボロい車両に乗ってみよう、と。  オハ六一は、走り出すと飛び跳ねるように揺れた。ボックスは明らかに狭い。がら空き列車の一ボックスを占拠していたので不便はなかった。これに四人で掛けたら狭かろう。オハ六一で長距離移動を強いられていた往年の旅行者を想像してみる。タバコでも吸わなければやっていられないんだよ……白く塗装されていたはずの天井はヤニを吸着して薄茶色に変色していた。  福知山を出て数十分。八二〇列車は綾部駅に到着した。ここで列車は二十六分間の長時間停車となった。  停車中、車掌さんがやってきた。 「お客さん、この車両は綾部で切り離しますよ」 「え?」 「京都方面に行かれるなら、前の車両に乗り換えてください」  結局、せっかく「発見」したオハ六一には十五分ほどしか乗れなかった。名残惜しく思いつつ綾部駅のホームに降りた。  切り離し作業を見物した後、僕は前六両の中から再び客車を選んだ。全部茶色とはいえ、スハ四三系とオハ三五系では微妙に違う。どちらかというと窮屈で簡素な造りであるオハ三五を選んだ。オハ三五の座席も決して豪華とは言えなかった。モケット張りの背もたれはクッションが薄く、直角に切り立っていた。木目ニス塗りの壁。肘掛けも木で出来ていた。おそらく一つずつ工員が手作業で削り出していたのだろう。プラスティックを多用した二〇一九年の車両より手が込んでいるとも言えるが、当時の技術ではこれが現実的な造りだった。照明は白熱電球。透明なガラス電球の中で、オレンジ色のフィラメント線が、たよりなく光っていた。  綾部でオハ三五に乗った僕は、ふと、隣のボックスにポニーテールの女子大生(と思う)が座っていることに気付いた。友達同士の四人で狭こいボックス席にちょこんと収まり、友人たちと楽しそうに話していた。  ポニーテールの女子大生は、細身で目がくりっとしていて鼻筋が通り、首筋まで白かった。どこから来たのだろう?どこへ行くのだろう?話しかける勇気などあるはずもなかった。山陰本線の車窓には梅が咲いていた。女子大生の梅より白い肌が気になって仕方がない。  八二〇列車は亀岡を出るとトンネルに入り、やがて保津峡沿いの渓流を辿り始めた。福知山線の武田尾渓谷に似た風景だが、こちらは「保津川下り」の船も往来する名勝として名高い。オハ三五の薄暗い車内に、時折山の隙間から陽が差した。車内はホコリっぽく、窓からの光でキラキラとホコリが輝いた。ポニーテールの女子大生が光の粒を振り撒いているように見えた。再び車窓に目をやると急流が岩場を噛み込んでいた。  八二〇列車は保津峡を抜けると京都市内に入り、高架で市街地を抜け、終点の京都駅に到着した。僕は多くの乗客と一緒に京都駅のホームにおり、乗り換えの新快速ホームを目指した。  そして、はっと思い出した。  ポニーテールの女子大生。  彼女はどこへ行くのだろう?  雑踏に紛れて振り返ると、彼女はどこにも居ない。
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