8.初めての寿司屋

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8.初めての寿司屋

 市原鶴岡病院は、今はホーページがある。改築したそうで、小綺麗で瀟洒な造りになっている。一九八三年当時は半ば放置されたような樹木に囲まれていた。正面入口の道は砂利道。門は無かった。作る気がないのか、それとも面倒くさいから作っていないだけなのか。無機質な鉄筋造りの病棟。それが、僕の覚えている市原鶴岡病院だ。  その病院で僕は、カウンセリングと投薬治療を受けた。  投薬は、抗鬱剤のトリプタノール、精神安定剤のセパゾン、睡眠導入剤のネルボン。それらを飲めば直ちに強迫症状が消えるのかと期待したが、そうではなかった。全然効いていないようにも感じられた。ただ、眠れるようにはなった。  後で知ったことだが、それぞれ、かなり効き目の強い薬であった。特にネルボンは二四時間に渡って効き目を発揮する強力な睡眠導入剤で、僕はこの薬のおかげで夜に眠ることが出来るようになったが、昼も午前中はほとんど眠って過ごすようになった。トリプタノールとセパゾンは、飲んだ実感というのは特に無かった。後で気づいたことだが、当時、医師は僕の問題について、強迫症状より強度の鬱状態と衰弱にあると見て、鬱状態の改善と、睡眠による休息をはかったのではないかと思う。  カウンセリングも、それによって強迫症状が減ったかというと、減らなかった。起きている僕に限りつきまとう。相変わらず何をするにも時間が掛かった。  学校は休んでばかりいたが、週に一度の通院は休まなかった。診察が夕方だったので「起きられた」という要因もあったが、小湊鉄道の素朴な乗り心地は悪くなかった。  ただ、帰りの列車が丁度いい時間になく、夕方一人寂しく無人駅の上総三又で列車を待つのは、いかにも淋しかった。  薄暗くなってきた頃、帰りの列車がやって来る。市原市内の高校の下校時間。三両編成の車内は大勢の高校生で混み合っていた。男子は太いズボン、パーマを掛けていたりする。お上品とは言いがたい。女子は「お嬢様ブーム」というのがあって、ちょうどその頃。可愛らしい白いリボンを髪に結んいた。総じて僕の通っていた地味な高校とは雰囲気が違った。それらが僕には、純粋に、うらやましかった。彼ら彼女らがいつもキャッキャとふざけ合いながら小湊鉄道に乗っているのが羨ましかった。同じ高校生ながら僕は、重苦しい強迫症状を抱えてびくびくしている。明るく楽しそうに振る舞うことが、彼ら彼女らに出来て僕に出来ないのはなぜだろう。  僕の生活は、毎日、午後に起き出して、学校に行ける日は午後から学校に行った。夕方に目が覚めた日には学校を休んだ。  つまりは遅刻と欠席の繰り返しでどうにもならず、結局、僕は学校を一年間休学することにした。  そんな体調でありながら、夏休みにはしっかりと鉄道旅行に行った。病気で強迫症状があっても、鉄道旅行だけは止めなかった。  いわゆる「青春18切符」が発売されたのは一九八二年。国鉄の普通列車に一日乗り放題の切符が五枚綴りで、当時一冊一万円。初めて夜行グリーン車で西宮に行った時には、既に発売されていた。その時になぜ青春18切符を使わなかったかというと、その切符ではグリーン券を買ってもグリーン車に乗れないというルールがあったからだ。(当時)  僕はこの切符を使って西宮に通った。といっても、西宮には投宿しない。行きに東京発大垣行きの普通列車三四五Mに乗り、翌日午前中に西宮に着く。そして、かつて住んでいた家や中学校門戸厄神東光寺などを巡って西宮の空気を据えるだけ吸い込む。夕方、西宮を発つ。そして、大垣発東京行きの夜行普通列車三四〇Mに乗り、翌朝帰ってくる。「青春18切符」の制約でグリーン車には乗れず、ボックス席で一夜を明かすことになるが、乗ってみるとリクライニングシートでもボックス席でも「眠れない」ことに大差はなかった。それより片道二〇〇〇円で西宮に行けるのは有り難かった。  東京発大垣行きの夜行普通列車にはいろいろな人が乗っていた。時には、同席の人と話に花を咲かせることもあった。  ある時、東京大学の大学生二人と同席した。その二人は互いに面識は無かったらしいのだが、一人は小太りのいかにも大学生という感じの男性で、二浪で東大に入ったと言っていた。「二浪もすれば誰でも入れるよ」と彼は謙遜した。もう一人は「実は僕も東大で」と切り出した。痩せ型で色白の男性だった。彼は「千葉からの帰りなんです」と言った。小太りの男性が「千葉から帰省ですか?」と訊ねると、痩せ型は「いや、東大生が千葉と言ったら」と言葉を濁した。彼は成田空港の反対集会に参加した帰りという。  その夏は西宮だけでなく、四国にも行った。この四国旅行には「青春18切符」ではなく、「四国ワイド周遊券」を使った。中学二年で四国に行ったとき、高知から松山まで国鉄バスに乗った。その時、途中で乗り継いだバスがツーマンバスだった。ツーマンバスというのは、車掌が乗っていて運賃を車掌に払うタイプのバスだ。その車掌が、「四国に来たら足摺岬は見ておけ、足摺岬はいい」と言っていた。僕にとっては、新しい場所に行く旅行であると同時に、昔に戻ろうとする旅行でもあった。  足摺岬は、遊歩道を覆うように椿が艶やかな葉を茂らせていた。花の季節ではなかったが木陰は涼しく、木々の発する芳香が漂っていた。僕は強迫症状で行ったり来たりを繰り返しつつも、緑のトンネルを歩き回った。岬の先端にたどり着くと地面に「四国最南端」と刻印された石が埋め込まれていた。  そこは断崖上の展望台で、海を見晴らすと黒潮が見えた。黒潮というのは太平洋を流れる暖流だが、読んで字のごとく、本当に黒く見えるのだということを、ここで実物を見て初めて知った。  「一寸まて」。そう書かれた白い看板があちこちに立っていた。足摺岬が投身自殺の名所だということを後で聞いた。今考えると精神を病んでいる状況で足摺岬に行くなど、よく親が許したと思う。  僕はそんな事情など知らずに、さらに足摺岬の遊歩道を辿った。緑の匂いと潮風を肺一杯に吸い込みながら歩いていると「白山洞門」という、岩穴から海が覗ける場所に出た。石ころの転がる海岸に、波が打ち寄せて泡立っていた。  不意に、同年代くらいの女子に声を掛けられた。面識はない。カメラを渡され、白山洞門をバックに「写真を撮ってください」と。髪の長い、ふっくらとした女子だった。僕がシャッターを押してカメラを返すと、彼女は「ありがとう」とだけ言い残して去って行った。  僕は彼女の名前も住所も聞き出さなかったことを後悔した。  だが僕には病気の引け目があった。  名前はまだしも、住所や電話番号など聞き出せたものではない。  ……  強迫神経症の回復は必ずしも順調ではなかったが、主治医は「学校には行ってください」と言った。主治医は多分、僕と社会との接点が切れてしまうことを危惧したのだと思う。とはいえ僕は休学をしたので、高校二年生を二回繰り返すことになった。  小湊鉄道での通院は予想外に大変だった。ここで初めて僕は、本数の少ないローカル線利用者の苦労というものを思い知った。通院の日に強迫症状で家を出るのが遅くなると、小湊鉄道の列車に間に合わない。そんな時にはやむを得ず五井駅からタクシーを使った。  二回目の高校二年生を迎えた春、僕は通院先を、市原鶴岡病院から、東京のクリニックに変更してもらうよう申し出た。その頃には東京への嫌悪感も多少和らいでいた。理由は分からない。「病気がよくなった」というより「さすがに上総三又は遠い」という、我ながら身勝手とは思うものの、そう感じ始めたのも事実である。  ともあれ学校は早退しなくてよくなり、通院に使う列車は速く、本数も増えた。旧型客車だのディーゼルカーだのと言いながら、いざ実用に使うとなると「やはり冷房付きの電車が便利」ということを痛感した。小湊鐵道キハ二〇〇から、国鉄二〇三系電車に。二〇三系は純然たる通勤電車なのだが、地下鉄千代田線乗り入れ専用車輌で、国鉄では珍しいアルミ車体であった。正面に緊急脱出用の扉があり、他では見ない角張った顔つきをしていた。何より有り難かったのは、当時まだ非冷房の通勤電車があった中で、全車冷房付きだったことだ。小湊鐵道キハ二〇〇が冷房化されたのは、ずっと後になってからである。  二回目の二年生の春休みにも西宮には行った。同級生は高校三年生を目前にして大学受験を意識し始めていたが、家に泊めて貰った。自転車を借りて門戸厄神東光寺にも行った。今思うと申し訳ないことをした。  さすがに夏休みには、同級生の家に行くことは遠慮した。その代わり前年と同様、「青春18切符」で西宮に向かった。往復夜行というプランは同じだったが、ちょっと趣向を変えて、紀勢本線で遠回りしてみることにした。東京を、夜ではなく朝早くに出る。名古屋まで東海道本線を使い、そこから関西本線で亀山に行く。亀山から紀勢本線に乗って紀伊半島を一周する。当時、紀伊半島の新宮駅から、天王寺行きの夜行普通列車、九二一列車があった。  一九八四年七月三〇日。早朝に家を出て、昼の東海道本線で西に向かう。名古屋に着いたのは一四時過ぎ。遅めの昼食を在来線ホームのきしめんスタンドで食べた。スタンドのおじさんは、きしめんの丼を差し出す直前に追い鰹を振りかけてくれた。しわっと縮みながら花鰹は芳香を発した。  名古屋から亀山まで、急行の中古車である一六五系に乗った。京阪神でかつて新快速に使われていた一五三系に似た車輌で、ボックス席の並ぶ車内だが、新快速に比べると空いており、がらんとしていた。  亀山駅に着くと、そこは大きな駅でホームが三本あった。古めかしい駅でもあった。昔は長編成の列車が止まったのだろう、ホームはみな長かった。  亀山駅の駅前には大きな鳥居が立っていた。有名な神社があるのだろう。亀山駅は宝塚駅のように発車間際に改札を行う方式ではなく、自由に構内に入ることが出来た。  改札から一番遠いホームに、紀勢本線一二七列車は停車していた。先頭は福知山線と同じDD五一。編成は短く、旧型客車の四両編成。旧型客車に乗るのは久しぶりだ。僕は乗るべき客車の品定めを行う。青色のオハ四七。今日はこれにしよう。オハ四七は、スハ四三系の一種。スハ四三の台車を、より古い戦前製スハ三二系客車の台車と交換した客車。そうやって捻出したスハ四三の優秀な台車を、当時最新の急行列車の寝台車に転用した。元のスハ四三は台車が旧型にロールバックして乗り心地はやや悪化したが、総重量が軽くなるというメリットを獲得した。車内の設備はスハ四三のままで、急行としての使用に耐えうるゆったりとしたボックス席であった。  やがて発車時刻となり、DD五一が緩やかに客車を引っ張り始めた。駅構内が複雑なためだろうか、しばらくそろそろと走っていたが、駅を離れてからもあまり速度を上げずに列車は走っていった。閑散とした車内で僕は大きく伸びをした。列車は山に囲まれた田園風景の中を進んでいった。  いくつかの無人駅で停車と発車を繰り返し、列車は津に到着した。三重県の県庁所在地。大きな駅だったが、大きいのは「近鉄津駅」だった。紀勢線のホームは隅に居候しているようで、実際、一二七列車に乗った人は少なかった。  一二七列車はゆったりとした歩みで紀勢本線を南下していった。多紀を過ぎたあたりから次第に山が近づき、やがて本格的な山越えの区間に入っていった。僕は客席を立ち、デッキに出てみた。手動ドアを開け放って走る旧型客車。デッキの手すりを掴み、僕は開け放ったドアに立った。西日が全身を照らした。列車が峠道に差し掛かると速度が落ちる。森の匂いがした。線路は曲がりくねり、車輪の軋む音が聞こえた。  三瀬谷という駅では少し停車時間があったので、降りて入場券を買った。山間の小さな駅だったが、ここで特急列車に追い抜かれた。福知山線の「まつかぜ」と同じ、キハ八〇系。クリーム地に濃い赤の窓周り。一二七列車は静かにに王者に道を譲る。  梅ヶ谷という駅を過ぎると長いトンネルがあり、長いトンネルを出てからも、いくつもの短いトンネルに入った。ゆるゆると山岳の隘路を走っていくと、やがれ列車は紀伊長島駅に到着した。もう暗くなっていた。明るければ海が見えたはずだ。  一二七列車の終点、新宮に到着したのは夜だった。腕がひりひりするので確かめてみると、少し日焼けをしていた。少し気持ちが晴れたような気がしたが、そんな気持ちは一体何年ぶりだろう?  時刻は夕食の時間であった。僕は寿司屋に入った。一人で寿司屋に入ったのはこの時が初めてだ。そして九〇〇円の並寿司を注文した。新宮の寿司は、特に変わったものが入っていた訳ではなかったが、美味しかった。  この後僕は、新宮発天王寺行きの夜行列車で西宮を目指すことにしていた。  この後。  この後、どうしたものだろう。  僕は、今、自分がなぜ、妙に高揚しているのかを考えてみた。  僕は今日、久しぶりに旧型客車に乗った。果たして旧型客車は、一体いつまで運転されているだろうか。冷房もなく、いかにも古くさいインテリア。危険な手動ドア。時代遅れとして淘汰されるのは時間の問題だろう。旧型客車そのものは大井川鐵道あたりが維持し続けるかもしれない。でも、旧型客車で全国を旅行するなどということは、近々に難しくなるだろう。  旧型客車だけが僕の気分を持ち上げてくれた訳ではない。これから西宮に行く、そのことが気分をよくしているのは間違いない。やっぱり西宮、関西。  そうだ、関西に帰ろう。  二回目の高校二年生を迎えた僕にも、来年は大学受験がやってくる。  西宮にも大学はある。だが偏差値の高い関西学院大学。僕には無理だ。  そこで偏差値を「逆」に読んでみる。  高い偏差値の大学を目指すのではなく、確実に入れる大学を、偏差値からリサーチする。関西にも偏差値の低い大学はあはずだ。西宮が無理ならば、せめて関西のどこかに帰ろう。関西ならどこでもいい。  その先、卒業してからどうするのかとか、そんなことまでは分からない。今は、考えたくない。  山葵の効いたマグロの赤身を頬張りながら、僕は、おそらく生まれて初めて、自ら、自分の進路について考えた。 (終わり)
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