2.はじめての二泊三日

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2.はじめての二泊三日

 誰が言い出したのか忘れた。多分、僕。一九八〇年七月、中学二年の夏休み前。  当時、大阪発青森行きの夜行急行列車があった。五〇一列車「きたぐに」。大阪二二時一〇分発、青森着翌日一七時〇一分。夜行といっても新潟に着く頃には夜は明けていて、寝台車は新潟まで。新潟から先は、座席車だけが日本海沿いをひた走る。鉄道雑誌でその列車の記事を読んで、僕は興味を惹かれた。いつかは「きたぐに」に乗ってみたいと……それを何かの拍子で、クラスのリーダー格であるMに話した。Mはテニス部で、鉄道旅行とはおよそ縁の無い人物だと思っていたし、実際そうだった。だが彼は「青森」に反応した。「青森」に行ってみたい、と。  確かに言われて見えると「青森」という土地は外国のようだ。親戚はいないし友人もいない。西宮から青森まで千キロ以上離れている。何があるのか(中学生の僕らは)全く知らない。用事はない。目的もない。ただ、行ってみたい。  鉄道旅行に詳しいメンバーとしてYが呼ばれた。Yは僕のような軟弱者とは違い、小学生の頃から一人で鉄道旅行に出かけていた。中学一年の夏休み、彼はクラスメイト同士三人で身延線の旧型国電に乗りに行っていた。彼をオブザーバーとして呼べば、万事が上手くいくように思えた。  僕らは夏休み前に時刻表を見てスケジュールを立てた。まず車中で一泊。「きたぐに」に乗りたい。で、それからどうするか。十和田湖に行ってみたいと誰かが言った。しかし「きたぐに」の青森着は既に夕方なので青森で一泊。青森駅から東京を目指し、夜行の急行列車で車中一泊。当時はまだ「上野発の夜行列車」が一晩に何往復も走っていた。東京で松浦の親戚の家に泊めて貰うという勝手な予定を付け足して一泊。四泊五日の行程が出来上がった。  とはいうものの、出来上がった行程を実行に移す前に、まず、親にバレた。バレたというより、当然行っていいものだと思って話したら、叱られた。何しに行くのか、五日も中学生だけで旅行になど行かせられるか。こっぴどく叱られた。僕らは反発した。Mのようなリーダー格が言い張るだけでなく、僕のような地味なキャラクタが折れないことに、親たちは戸惑った。  そして親たちは学校のクラス担任に相談した。僕らは夏休み前の放課後、クラス担任であるN先生に呼び出された。  N先生は四〇代の中堅「昭和な先生」。教育大卒の聡明な理科の教師にして二児の母。彼女が怒るとビンタが飛ぶ。でもそれは一九八〇年にはごく日常的な風景。教師が生徒を殴る張り倒す、そんなものは体罰のうちに入らない。実際、その「体罰」があった。有名だったのが「シバセン」による暴力事件であった。どうにも質の悪い不良生徒を体育教師「シバセン」が体育倉庫に呼び出た。そして鍵を掛けて「タイマン」、一対一の勝負を迫った。一方的な体罰ではなく「決闘」。結果「シバセン」圧勝。不良生徒は立ち上がれなくなり血糖終了、そこで不良の親分格が生徒を引き取りに来た。親分格ともなれば「決闘後の疲労したシバセン」を叩きのめす余裕はある。だが彼は「シバセン」には「ありがとうございました」と言った。ボロボロの子分を抱えて「これはどう考えてもお前が悪い」と諭した。  この話はあっという間に生徒の間に広がり、さすが職員室でも賛否論争が起きた。その時「シバセン」は決心と約束を表明した。次期入学生(私たち)が卒業するまで「酒を一切断つ」と。そして実際、忘年会でも歓送迎会でも、乾杯のビールさえ口にしなかった。生徒にも厳しかったが、同じくらい、いやそれ以上に自分に厳しいのが「シバセン」だった。  そんな「シバセン」ほど怖くはなかったけれど、N先生のビンタは相手を選ばなかった。不良はもちろん優等生も容赦無い。中学一年の時、比較的成績優秀な女子生徒Aが、女子生徒Rへの集団いじめを首謀した。それを知ったN先生は、Aを自分の机に呼びつけ、一通りAの言い分を聞いた後、猛烈に怒り始め、往復ビンタ食らわせた。その数一七発。間違いない。僕の机はN先生の机の目の前だったから。しかしAもしれっとしたもので、ビンタでゆがんだ眼鏡を治しながら「あの先生は時々発情するから」と言い放った。しかしその後室井への集団いじめは完全に消えた。体罰を礼賛するつもりはないが、あのとき、N先生にそれ以外の選択肢はあっただろうか?  N先生のビンタは生徒だけが対象ではない。10歳後輩の若い男性教師(柔道部顧問)を張り倒したという伝説もある。張り倒された柔道部顧問が自分で言っていたので間違いなく事実。  ともあれ、僕の通っていた中学では、先生というのは「そういうもの」だった。「先生から呼び出しを食らう」というのはMとっては珍しくないことであったが、僕は学校で先生に目を付けられたのは初めてで、呼び出しを食らったことそのものにショックを受けた。しかも相手はN先生である。もう身体を縮めてお伺いするというか…… 「君ら、なんで青森に行きたいんや?」  N先生の問いに僕は答えた。 「夜行の急行列車に乗ってみたいんです」 「それだけか?」  Yが答えた。 「十和田湖とか津軽海峡とか見てみたいです」 「津軽海峡なあ。あのなもっと近くやったらあかんのか?京都とか奈良とか」  僕が割り込んだ。 「夜行列車に乗りたいんです」 「夜行はキツいで」 「だから乗ってみたいんです」  それからしばらくあれこれやりとりがあったと思うが、詳しくは覚えていない。MやYはともかく、クラスでも目立たない、地味な存在であった僕が折れないことに、N先生は戸惑っているようにも見えた。ビンタが飛んでくることはなかった。言語には言語で対応する、理性的な一面を持つ先生でもあった。話合いは平行線を描いた。  呼び出しはその後二~三回繰り返された。もちろん押し問答で、N先生は渋い顔をし、僕らは強気の姿勢を崩さなかった。  三度目の交渉だったか。N先生は僕らに問うた。 「夜行でない日の夜はどうするんや」  松浦が答えた。 「国民宿舎を予約します。それと、僕の親戚の家に泊めてもらいます」 「夜遊びとか、せんやろな」  僕が即答する。 「しません。そういう目的ではないので」  N先生は、しばらく考え込んだあと、ゆっくりと言った。 「あのな、君らの話はわかった。君らを止めることはできん。ただし、許可はせん。意味分かるか?」  僕らはその意味を理解しかねた。 「君らを信用する。ええな、信用や。ただし、あくまで許可はせん」 「はい!」  僕らは、ようやくN先生が妥協案を出してくれたことに感謝した。  しかし、これで本当に困ったのは親達だった。まさかのN先生が折れた。それから僕らは、徒労のような親達との交渉に苦しむことになる。このあたりは詳しいやりとりを覚えていないが、どういう訳か、次のような条件で許可が下りた。 一、二泊三日まで 二、夜行列車は許可。 三、夜遊び禁止。  ともあれ、ギリギリで日程「だけ」が決まった。  四泊五日の予定が崩れてしまったので、青森には行けない。だが「どこでもいいからどこかに行きたい」。  行き先そのものが、広島、山陰と二転三転し、最終的に決まったのは四国。  なぜ四国かというと、当時四国には高松発着の夜行列車があって、二泊ともその夜行列車を使うことで宿代を浮かせられるという計算があった。それと、当時運行していた「宇高連絡船」に乗ってみたいと誰かが言い出した。当時、連絡船と言えば有名な「青函連絡船」があったが、本州と四国を結ぶ「宇高連絡船」も現役だった。瀬戸大橋は計画段階で、橋脚も建っていなかった。  ……  親達との交渉が遅れに遅れたため、旅行の出発は一九八〇年八月二三日になった。  僕らはまず阪急電車で神戸三宮まで行き、そこから国鉄の新快速に乗った。新快速に乗ると、少しは「遠くに行く」という気分になる。といっても当時の新快速は、中古車だった。昭和三〇年代に造られ、東海道の急行列車でさんざん使い回したお古の一五三系電車。車体は青と白のペンキで塗り直していた。ボックス席の規格は福知山線のスハ四三と同じ。でも冷房が付いていた。まだ阪急電車にも扇風機だけの通勤車が走っていた時代。冷房は「デラックスな設備」だった。その新快速で姫路まで行った。  実は僕らが新快速で姫路に行ったのは、これが初めてではなかった。一九八〇年五月五日、僕らは三人で、姫路に転校した友人の家に遊びに行っていた。それがM、Y、僕の三人が結集したきっかけでもあった。  姫路から先は未知の路線。緑とオレンジの塗装から「みかん電車」あるいは「かぼちゃ電車」と呼ばれていた一一五系、六両編成。一一五系もボックス席だが急行用の一五三系より一回り狭い。冷房なし。それが良かった。一一五系の窓は二段式、その上下二段の窓を二枚とも天井方向にスライドさせせば、窓を完全に開け放つことが出来る。  普通電車とはいえ最高時速は時速一〇〇キロ。窓際に松浦と吉田が座り、通路側に僕が座った。全開の窓から風がびゅうびゅうと吹き込んだ。日に焼けた稲穂と噎せる緑。晩夏の匂い。山陽本線は曲線が多い。両側から山が迫ってきたかと思うと、ぐねぐねと線路は山頂を避け、やがてすぅっと開けて平地に戻る。  Mが素朴な疑問を呈する。  「なんでこんなに山があるんに、トンネルがないんや?」  Yが答えた。  「山陽本線は明治の開通や。まだトンネル掘る技術が未発達やったから、なるべくトンネルを避けてるんや」  僕らは岡山駅で、宇野線の快速に乗り換えた。  宇野線快速も「みかん電車」の一族、一一三系。冷房付きでグリーン車もあり、長い十二両編成だった。「本四連絡」という重積があるせいだろうか?冷房車ゆえ窓が開けられない。「風がないとつまらない」。冷房がデラックス、という僕らの概念は完全にひっくり返されていた。  宇野駅からは宇高連絡船に乗る。本州と離れる。自分たちの住んでいる土地と、海を隔てて離れてしまう。  宇野駅の岸壁に接岸していたのは「伊予丸」であった。宇高連絡船はフェリータイプの大きな船だった。広い普通船室には特急のような二人掛けの青いシートが並んでいた。グリーン船室というものもあって、鉄道のグリーン車に相当するものだったが、そちらを覗いてみると深紅のソファーが並んでいた。  「いつかグリーン船室に乗ってみたい」  僕は呟いた。  「そやな。あれ格好いいよな」  MとYが同意した。  僕らはしかし、普通船室にもグリーン船室にも入らなかった。連絡船の屋外デッキの一番前に立った。そこにはプラスティック製の椅子があったが、それには座らずデッキの最先端に立った。目の前に多島海が広がっていた。僕らには、一刻、一秒でも早く四国を見たい、そんな思いがあった。デッキの一角には「讃岐うどん」のスタンドがあり、出汁の香りを漂わせていた。  やがて出港の時間となり、連絡船は船底から泡を吹き上げてゆっくりと岸壁を離れた。だがしばらく進んだところで船は止まってしまう。なぜだ?しかも船はぐるぐると、その場で回り始めるではないか。何だ?戻るのか?  そうではなかった。僕らが一番前だと思って立った場所は、船の最後尾だった。宇高連絡船は船首を接岸する構造になっており、出港するとまず、港内で一八〇度方向転換する必要があった。僕らの目の前には、多島海に変わって、ついさきほどまで居た宇野駅が、ぱっくりと線路を開けてそこにあった。宇高連絡船は旅客列車こそ積んでいなかったが、貨車は積み込んでいた。  宇高連絡線の所要時間は一時間。二〇一九年の瀬戸大橋線は十分で瀬戸内海上を通過する。船は列車とは時間の流れ方が違う。船尾のアンテナの先にカモメが止まった。カモメはしばらく羽を休めると、どこかに飛んで行ってしまった。潮風を吸い込みながら僕らは、デッキの手すりにもたれ、少しずつ小さくなっていく宇野駅を眺めた。次第に宇野駅は見えなくなり、小さな島を見送った。穏やかな瀬戸内海、住めそうにない小さな島でも木々は育つ。こんもりと緑を盛り付けた小島が、いくつも、いくつも、いくつも……  退屈の気配が漂い始め、僕らは船首に移動した。  Mが言う。 「あれ、港ちゃうか?」 「そや、高松港や!」 「高松や!」  遠くに小さく岸壁のようなものが見え始めていた。  しかしそれからが長かった。なかなか高松港が大きくならない。  じわじわと船は四国に近づいているのに、なかなか到着しない。  ようやく連絡船が接岸すると、僕らは大勢の乗客の先頭を切って、走るように高松の岸壁に降り立った。  Mが叫ぶ。 「『うどん』や!」  四国高松と言えば讃岐うどん。そのくらいの予備知識は僕らにもあった。  高松駅の一角に大きなうどんのスタンドがあり、僕らはそこに入った。  注文して出てきたうどんは、腰が強く、これまでに食べたことのない弾力があった。 「ゴムのようだ」  とは、K評。  Yは、 「これまでに食べた駅うどんの中で一番旨い」  と言った。  うどんを食べた後の予定は……実は、ない。  二時間後に出る土讃本線の普通列車に乗る。それ以外に事前に決めていたことは何もなかった。あまりの急なスケジューリング、観光らしい観光を、予定していなかった。そもそも四国に「宇高連絡船」と「うどん」以外に何があるのか、僕らはよく理解していなかった。とりあえず高松駅を出て、街を歩いてみることにした。  最初に見つけたもの、高松琴平電鉄という私鉄の「高松築港駅」。駅名に地方私鉄らしさを感じたが、そこから出る電車がどこに行くのかを、僕らは知らない。  その駅の近くに高松城址があった。といっても天守閣はない。「玉藻公園」という名の公園になっていた。玉藻公園は有料であったが、入場料は当時「十円」だった。何でも「清掃費用に充てる」というような説明書きが看板にあった。十円という安さに惹かれて僕らはそこに入った。玉藻公園には日本庭園があったが、日本庭園の味わいを語るようなメンバーではない。庭園を走り抜けて広場に出ると、堀端の芝生に寝そべった。海を渡って四国まで来て、何やってんだろうな?堀に沿って高松琴平電鉄の線路が敷かれていた。「ぐうん」という唸りを上げて、朱色とクリーム色に塗り分けた電車がやってきた。どこかの私鉄の中古車だろうか?なんとも古そうなスタイルだった。そんな電車を何本か見送りながら、僕らは無為な二時間を過ごした。  高松発一三時二四分発、土讃本線高知行普通列車。それが高松から僕らの乗った列車だ。列車番号は、多度津までが一四五D。多度津で予讃本線伊予三島行きを分割して、高知行は二三五Dとなる。その列車で土讃本線の新改という駅まで行く。なぜ新改駅なのかというと、それはYの提案による。  高松駅で僕らを待っていたのはキハ二〇。当時全国のローカル線、地方の本線、とにかく至る所で見られた。昭和三〇年代設計のディーゼルカー。車体は朱色一色。ボックス席で冷房はなく、窓枠下の細長いテーブルは木製でペンキ塗り。薄緑色。僕らはキハ二〇の窓を全開にした。  のっそりと高松駅を離れると、キハ二〇は西を目指した。ディーゼルカーの加速は(一九八〇年当時は)緩かった。動力にエンジンを使う関係上、騒音が大きい。特に走り出しの唸りが凄い。その唸りゆえ、「僕は頑張って走っています」と語っているように思えた。時速九〇キロ付近まで速度を上げるとギヤをニュートラルに入れ、カラカラとアイドリングを続けながら讃岐平野を駆ける。この地方に特有の、ぽっこりとお椀を伏せたような山が見えた。南国の日差し。窓際に座るMとYの腕を容赦なく灼いた。  多度津で五分間の停車があり、列車は伊予三島行きと高知行きに分割される。僕らの乗っていた車両は伊予三島行きだったので、ここで高知行二三五Dとなる車輌に乗り換えた。二三五Dは当時最新のキハ四七だった。一九七〇年代に開発された新型。でも冷房はない。当時の国鉄には「地方は空気が綺麗なので冷房は不要」という考え方がある、と、鉄道雑誌で読んだ。キハ四七座席もボックス席だが、改良されて一回りゆったりしている。外装は朱色一色。運転台の窓がキハ二〇に比べて高い位置にある。見下すような険しい顔つき。  キハ四七も二段式の窓で、ここでも僕らはその窓を全開にした。冷房のないことは苦にならない。吹き込む風が髪をかき乱す。  キハ四七は、ちょっと変わった走り出し方をした。ガラガラ、とエンジンを吹かし、ゆるりと動き出したかと思うと、一旦エンジンを止める。一呼吸置いてから再びにエンジンをかき鳴らして本格的に加速を始める。後で知ったことだが、実は、キハ四七というのは重量の割にエンジン出力が小さく、旧型のキハ二〇どころか、その一世代前のキハ一〇より走行性能が劣っていた。キハ四七の起動時にはエンジンを空ぶかしする。ブレーキを緩めるのでクリープ現象でゆるりと進むが、そこで一旦空ぶかしを止め、もう一度エンジンを吹かし直して本格的に加速を始める。もっとも、そんなことを当時の僕らが知るはずもない。  キハ四七も夏の讃岐平野を快調に駆け抜ける。そして「塩入」という駅に到着した。ここで少し停車時間があった。僕らはホームに降り立ってみた。木造の簡素な駅舎に立ち寄ったYが言った。  「ここは簡易委託駅や」  簡易委託駅というのは、国鉄の駅の運営を地元の農協や個人商店などに委託し、切符の販売を代行してもらう駅のこと。そういうことにYは詳しかった。塩入は、駅前の雑貨屋で切符を売っていた。Yは塩入駅で初乗りの切符を購入した。西宮市内には簡易委託駅がなかったから、簡易委託駅の切符というのは貴重なものに思えた。  塩入から先は曲線が多くなった。一つ駅を進むごとに坂が険しくなり、山越えの区間に入る。キハ四七の速度は目に見えて落ち、ぐるぐると苦しそうにエンジンを掻き回して坂を登る。濃厚な森の匂いに、油煙が混じり始めた。  讃岐財田を出たあたりからトンネルが現れた。いくつかの短いトンネルを抜けると、長いトンネルに入った。列車はなかなかそこから抜け出せなかった。後で調べてみると「猪ノ鼻トンネル」という長いトンネルで、ここが峠越えであった。車内が白煙でかすみ始め、大粒小粒の煤が暴風に混じり始めた。僕ら日よけのスクリーンを下ろして煤を防ごうとしたが、風圧が強い。スクリーンを膨らませて煙と煤が容赦なく攻め入る。僕は煤を吸い込んでしまったようだ。やばい。僕の弱点「扁桃腺が大きいため腫れやすい」。そして今、喉が痛み始めている……  「塩水でうがいをすれば治るのだけど」  Yが言う。  「シオいりの切符やろか?」  僕は、この際切符でも何でも水に浸して塩水を作ればうがいが出来るかと考えたが、Yが見せたのは先ほど「塩入駅で買った」薄い切符だった。  坪尻という駅に到着する前、列車は一旦、何もない場所で停止した。やがてゆっくりと後退を始めると、狭いプラットホームが現れた。スイッチバック。蒸気機関車時代、山越えの上り坂で停車すると再起動が困難であった。そこで坂の途中から水平な分岐線を延ばして、そこにホームや待避線を作る。  僕らの旅の、数少ない名目の一つに、この「スイッチバックを見学する」というものがあった。いや「見物」の誤りか。Yの発案だった。坪尻と同様のスイッチバックが、土讃本線にはもう一つある。それが新改、僕らが目指す駅だ。新改で下車する理由は、スイッチバックの線路をこの目で見ることにある。まずは坪尻で乗車体験、新改で現地を見る。  僕はといえば、坪尻を出たあたりから、ますます喉が痛くなっていた。扁桃腺に違和感。まずい。熱を出すサインだ。そんなことなどお構いなしにキハ四七は、煙と煤を吐き出しながら坂を登っていく。列車はトンネルへの出入りを繰り返し、その都度僕らは日よけを下ろした。だがトンネルの風は強く、煤煙は容赦ない。喉が痛い。完全にやばい。  いくつかのトンネルを抜け、山間の小さな駅に歩みを止めつつ、キハ四七は阿波池田駅に到着した。阿波池田は思いのほか大きな駅で、駅から見下ろす盆地にはびっしりと建物が密集していた。  MとYが感慨深げに言った。    「ここが池田高校の阿波池田かあ」  公立高校に高校野球の強豪校が多数あった時代。阿波池田といえば、何度も甲子園に出場した徳島県立池田高校の町、というイメージが僕らにもあった。池田高校は小さいことで有名だったから、阿波池田の町も小さいのだろうと思っていたが、そうではなかった。僕はと言えば、高校ではなく病院、この町なら病院がありそうだ、とは思ったものの、下車して医者に診て貰いたい、とは言い出せなかった。  阿波池田を過ぎると、列車は再び山岳地帯へと分け入っていった。吉野川の谷沿いに曲がりくねりながら線路は続き、時に長短のトンネルをくぐる。都度、窓際の松浦と吉田がスクリーンを下ろして煙を防ぐのだが、びゅうびゅうと暴風がスクリーンを押し出し、軽油のにおいと煤煙を車内に押し込む。谷はますます狭くなり、吉野川は急流となった。大歩危駅のあたりから、車窓には大歩危・小歩危の渓流が展開する。深く険しい谷底、その岩場を激流が白く叩きつけるように落ちていく。MとYは立ち上がって車窓に見入る。指で枠をつくって「シャッターチャンスは今だ!」「いや、今だ!」「今だ!」と、すっかりカメラマン気分であった。実際には僕だけが小さなカメラを持っていたのだが、ぐったりとして何も出来なかった。  列車はさらに山懐の深いところへと歩みを進め、繁藤という駅に着いた。ここでも行き違い待ちの停車があり、Yは切符を買いに行った。理由を尋ねると、ここは四国の国鉄の中で最も高いところにある駅だからだという。僕は重い体をひきずりながら吉田について行った。繁藤は塩入と同じく簡易委託駅であった。、僕も切符を買ってみた。薄手で、ミシン目で切り離して売る簡素な切符だった。四国で最も高いといっても山頂にある訳ではない。見晴らしは良くなかったが、山に囲まれた静かな駅だった。こんなところに医者は居そうにない。  繁藤の次の駅がいよいよ新改であるが、峠を越えたとはいえまだまだトンネルが多く、線路は山岳の腸をえぐるように、ぐねぐねと曲がりながら続く。  いくつか目のトンネルを抜けると、列車が何もない場所で停止した。着いた。新改の引き込み線。やがて列車はバックして、しずしずとホームに停車する。時刻は一八時〇六分。西日本の夏とはいえ、周りを山に囲まれた新改は薄暗くなり始めていた。木造の小さな駅舎は無人駅だったが、昔は駅員さんが居たらしい。出札窓口の跡が板で塞がれていた。僕らと一緒に数人の乗客が下車したが、皆、すぐに駅から出て行ってしまった。駅前に一軒だけ雑貨屋があったが、ほどなく店を閉めてしまった。  僕らは新改で二時間を過ごすことにしていた。というより、次の列車が二時間後まで来ない。  まずはスイッチバックの線路を見に行こうと、線路に沿った道を歩いてみた。僕は元気を失っていたが、ここまで来てスイッチバックだけは見ておかねば、と、気力を振り絞る。斜面の藪をかき分けて登ると、線路が見えた。遠隔操作なので人は居ない。複雑な形の重そうな分岐器がずっしりと鎮座していた。レールの表面は、暮れ始めた夏空を銀色に映していた。  「よし。スイッチバックは見たぞ、と」  それからどうしようか?僕らは戸惑った。駅前の雑貨屋は閉まっている。駅からの一本道を降りてみたが、いくら歩いても人家の気配がない。僕らは引き返して駅舎に戻った。木造駅舎の待合室には宝塚駅より少し小降りな木造のベンチがかあった。壁に貼ってあるポスターは全て「国鉄」。それはそうであろう、この駅に広告代を払ってポスターを出しても、見る人は限られている。  山間の日暮れは早い。夕陽はあっという間に沈み、山間の小駅は闇に包まれた。辛うじて照明がある新改駅の待合室だけ。  ベンチに座った僕は額に手を当ててみた。じんわりと熱かった。  「やばい、熱がある」  Mが僕に言った。  「お前は寝とれ」  僕は素直に、ベンチに横になった。天井に蛍光灯に、見たことのない大きな蛾が何羽も集まり、ばたばたと音を立てて蛍光管にアタックを繰り返していた。MとYは暇に飽かせて普段の学校の話などを始めた。クラスの女の子の話を始めたとき、それだけは僕も参加しようと思って体を起こしが、  「だからお前は寝とれ」  Mに諭されて僕は再び横になる。  夜の無人駅。乗り継ぎ予定一九時五八分発高知行き普通列車二二五列車は、なかなか来ない。到着時刻が近づいても、駅員も放送もなく、新改駅は静けさを保っている。  時計を見て僕らは、そろそろ来るぞ、と、ホームに立ったが、やはり何も気配がない。  やがて遠くから轍の音が聞こえてきたが、聞こえ始めてからどれくらい待っただろう?というより、無音になった。消えた?と、唐突に暗闇の中から小さな赤いテールランプ二個だけを灯して、旧型客車がホームに入ってきた。スイッチバック。ホームに入るには列車はバックでやってくる。客車の色は茶色……僕らはそのあまりの不気味さに言葉を失ったが、本当に驚いたのは車内。オハ六一、僕が山陰本線で「最もボロ」と思った、木目板張り、背もたれクッションなしの旧型客車であるが、山陰本線のオハ六一は昼に乗った。はじめての、オハ六一の夜。照明は白熱電灯。透明なガラス玉の中にオレンジ色のフィラメント。飴色に薄暗い車内に板張りの背もたれが並ぶ。乗客はいない。  Mが叫んだ。  「幽霊列車や!」  そろりと走り出した旧型客車。新改駅をの複雑な分岐器を渡る時にはゆっくりと複雑な轍を踏んでいたが、そこから先は下り坂らしい。オハ六一は一気に速度を上げた。僕らは出来るだけ大きな足音を立てて車両を駆け抜けた。一両目を抜けると、次の車両はオハ六一。無人。三両目もオハ六一。乗客が居たが、二~三人だったと思う。四両目、同じオハ六一。五両目、やはりがら空きオハ六一。六両目オハフ六一、オハ「フ」?    「待て!」  僕が叫ぶより早く、先頭のMが慌てて立ち止まった。当時、「フ」のつく客車は最後尾に連結されることが多かった。しかも、旧型客車の最後尾にはドアがあるとは限らない。  このオハフ六一もそうであった。最後尾で通路が大きく口を開け、そこで編成が終わっていた。足下から二条の鉄路が水銀のように流れ出していた。  僕らは客室内に戻り、背ずりが板張りの狭いボックス席に収まった。MとYが並んで座り、僕だけが「横になれ」ということで、二人分のスペースを使って横になった。  ……  「でー、ひよわの飯島君はそれからますます熱を出して」  「ひよわちゃうわい!」  (笑)  「高知駅に着いた僕たちは急遽宿を探すことにしました。けどお金もないしどうしよかと思って、駅前の観光案内所というところに相談に行きました」  (ほーう)  「そしたら、高知駅前にユースホステルっていうのがあって、そこなら安く泊まれるけど身分証が必要って言われて」  (えー?)  「ところが準備の良い僕だけが生徒手帳を持っていたので、それを見せたら泊めてもらえました」  (ふーむ)  「でも、そこに行ったら大学生みたいな人ばっかりで怖くて」  (笑)  「僕らは朝まで部屋から出られませんでした」  (笑)  夏休みが終わり、始業式の日にクラスで「夏休みの思い出を発表する」という時間が持たれた。  僕らは無論、四国旅行の話をしたが、やはり話術に長けるMが一番上手かった。  N先生は、にこやかな表情で僕らの話に耳を傾けていた。
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