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2 逃避①
10月の半ば。平日の昼日中。
本当ならば今ごろ柚希も製造チームの仲間たちと勤め先のドーナツ屋でハロウィンイベントの特別メニューの製造で忙しく作業している時間帯だろう。
しかし前回のお中元シーズンにぶち当たった発情期に続き、製造チームに穴を開けてしまって皆にとても顔向けできそうにない。
とはいえ女性の多い職場で力仕事から悩み事まで請け負う、緩衝材的存在である皆の絶大な信頼を勝ち得ている柚希は、昨日発情前の兆候の1つ、微熱と倦怠感に見舞われ早退する時も『次の休みはお歳暮とXmas前に当たらなそうだから気にしないで!』と明るく笑顔で見送られた。
(復帰したらめちゃめちゃ働くから、みんなごめん! うう、抑制剤飲んでても、怠すぎ……)
一人暮らしをする時に慌てて買った量販店のぺらっぺらの布団にくるまったまま、柚希は怠さと熱っぽさに呻いて何とか寝返りを打つと、背中も痛くなってやたら物寂しい気持ちに襲われた。
『一ノ瀬さん、あんなに素敵なスパダリ恋人がいるんだから早く番になればいいのに』と職場の皆にも無邪気にそう羨ましがられている。
しかし『次の発情期では番おう』と恋の晶からこの3ヶ月折につけて言い含められていたのにも関わらず、この度も柚希はシェルターホテルに逃げ込もうとしている。
(そろそろ……。チェックインできる時間、だよな? 抑制剤切れる前に移動しないと……。カズ、遅いな)
今、弟の和哉が大学の講義に出て、その足で柚希をシェルターホテルへ送ってくれようと車でこちらに向かっているはずなのだ。
『兄さん、僕が迎えに行くまで絶対にふらふら外に出るなよ?! 発情期のΩはぼーっとしてて本当に危ないんだからな!』なんて昨晩も今朝方もしつこく和哉に電話で言い渡されたところだ。
(あいつ最近口うるささが母さんそっくりになってきたな……。言われなくてももう、ここまで来たら一人で出歩くの辛すぎ……)
血の繋がりはないはずなのに、和哉と柚希の母は世話焼きなところがよく似ている。昔は柚希が三つ年下の和哉の世話を焼くのが楽しくてしょうがなかったのに今ではすっかり立場が逆転だ。
この世で一番大切で大好きな家族の顔を順に思い浮かべたら、全身を押さえつけられているような重苦しさが少し和らいだ気がした。
ベッドサイドの小さなテーブルに置かれたスマホがまた律動し、画面に晶の実家で飼われている愛犬のプードルのぬいぐるみのような顏が映し出された。
まだ完全に発情期が始まっているわけではないが、徐々に倦怠感が増し起き上がるのも億劫だ。
悪いと思いつつもちらりと一瞥をくれた後、枕に顔を埋めて無視を決め込む。しかし正直、晶からの鬼のような着信履歴を確認するのが恐ろしいのだ。
(晶。ごめんな)
本当は恋人の晶と番になって即結婚してしまえばこんな苦労をすることもないだろう。だが突然の思いがけないΩの判定を出されてまだ3年弱。
前回の発情期も番になる踏ん切りがつかず、結局和哉が探してくれた番のいないΩ向けのシェルターホテルで乗り切った。薄給の身の上にはかなりでかい出費だったが、役所へ申請すれば補助金も降りると和哉が調べてきてくれたのでありがたく使っている。持つべきものは出来のいい弟だ。
そうしている間にもまたスマホが震えて柚希のを心をも同じぐらい揺らしてくる。 いつも柚希のどんなくだらない話も興味深げに聞いてくれる晶の、黙っていると切れ長で鋭いが笑うと途端に優しく見える穏やかな目を思い浮かべる。
(いくら怒ったところを見たことないあいつでも……。いやむしろ呆れてる? 今度こそ別れようって言われるだろうな。そもそも俺のことを心配して恋人になってくれたようなものなのに……。煮えきらなくて、ごめん)
晶は高校のバスケ部一つ年下の後輩。高二の夏休み前に行われるバース検査の結果でも既にαだったらしい。顔好し、頭好し、性格も良くて、おまけにバスケも上手。選手層が薄かった柚希の代と一緒にプレーをすることも多かったから、チームメイトでいられる期間も試合の遠征の時など一緒に行動する時間も長かった。
先輩たちの中で気を遣うことも多いだろうと、副キャプテンだった柚希はそんな晶がチームに溶け込めるように特別可愛がっていたし、晶も柚希を慕ってくれていたので同級生と同じくらい一緒に遊ぶことも多かった。
高校当時柚希は自分がβだと思っていたし、実際高2で行われる一次判定の結果もβだった。自分で言うのもなんだが目元もパッチリとして鼻筋も通った、割と整った顔立ちをしていると思う。女の子からもそれなりにモテた。
晶と付き合った今となっては笑い話だが、当時バスケ部内で仲の良いもの同士で恋人を連れてグループ水族館デートに行ったりしてその中に柚希も晶も当時の彼女がいた。柚希は女の子の方とはすぐに疎遠になった。まさか後々晶の方と付き合うことになるなんて、そんなとんでもない展開、想像できたはずもない。
晶とバスケ部のチームメイトの飲み会で再会したとき、誰でも一度は名前を聞くような大企業に就職が内定していた晶から『ユズ先輩。俺と付き合いませんか?』なんてストレートに告白された時には心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いたものだ。
柚希がΩ判定を受けたことは昔の仲間に率先して話した訳では無い。むしろ判定を受けた後は専門学校の勉強、そののちは仕事が忙しくてといちいち理由をつけては昔のバスケ仲間の集まりから疎遠になっていた。
二年が経って新年会の誘いをもらった時、なつかしさと縁が切れかけていた寂しさも手伝って昔の仲間と勇気をだして会ってみようと思ったのだ。
しかし噂とはどこからともなく漏れるもので、その日の飲み会は疎遠になっていたかつての司令塔で副キャプテンの柚希が、実はΩに変化していたという話題で持ち切りになっていたらしい。
仕事で遅れて到着した柚希は急にΩになった珍獣扱いを受け、かつてのチームメイトから酔いと仲間内の気安さも混じって結構際どい性的な質問もよってたかって投げかけられた。
柚希も自分がβだったころは『Ωもの』のAVを気にならなくもなかった。勿論実際のΩが出演しているわけではないだろうが、首輪をつけた女優が発情期にどエロく男を求める姿等、やっぱりクルものがあった。
しかしいざ自分があんあん喘ぎながら男を求める側、つまりあちら側に立たされるとなると話は別だ。
仲間たちは 酔いが回って遠慮がなくなってきたものからなんとなく身体を寄せられたり、匂いを嗅がれたり『Ωとやるのって、やっぱ死ぬほど気持ちいってホント?』『俺ユズならいけるかも? 顏だけ見たら結構美人だもんな』などと明け透けに言われじりじり皆に囲まれた。
柚希は冗談ではもう躱すこともできずに水滴がついて濡れたコップを握りしめたまま、衝撃のあまり身動きもとれずに困り果てていた。
馬鹿やって騒いで、はしゃぎまわっていた、かつての仲間と自分の間に絶対的に踏み越えられぬ垣根が生まれたようで、顔は笑っていたが胸に沢山の棘が刺さったようなチクチクと切ない痛みに苛まれ切なくて泣きそうになった。
みるみる元気をなくす柚希の様子を黙って見守っていた晶が見かねて外へ連れ出してくれて、近くの公園で会えなくなっていた間の話を沢山聞いてくれた。
今まで自分がΩ性に変化したことをどうにか肯定的に捉えようと頑張ったこと。でもどう考えても不便ばかりが付きまとって一つもいいとは思えなかったこと。家族にすら打ち明けられぬ蓄積して言った沢山の不平不満、そして誰からも理解されぬ哀しみ。それをぼやける相手もおらず、いつも悩みがなく明るいところが取り柄あった自分が鬱々と暗い悩みを抱えていると。
そもそもそんな腐った姿を人に見せていることすら嫌で、限界まで我慢していた思いが酒の力も手伝って大爆発したのだろう。
真冬の公園でおいおい泣きじゃくりながらさらにコンビニで買ってきた缶チューハイを煽った柚希を、最後まで根気強く話を聞いてくれた晶が憐れに思ったのか、多分同情から告白をしてくれたのだ。
最初流石に『俺ではお前に釣り合わないから、やめとけやめとけ』と取り合わなかったが、何故か熱心にどうしてもと請われて『じゃあ、試しに』と付き合い始めてもうすぐ9か月といったところか。
付き合ってすぐに来た発情期は時期尚早と番にならなかった。その後は勿論、若い男同士それなりにちょっとエッチな行為はしてきたが、主に口や手を使う程度で最後までは致していない。いきなり子供ができてしまうこともあり得て柚希にその覚悟がないといい、晶がそれを尊重して大切にしてくれたからだ。
そして迎えた2度目の発情期。柚希は意図的に逃げ出した。
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