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23 恋仇の台頭①
自分がαであるとの告白するタイミングを完全に失った和哉は、そのまま時が来るまでは柚希を見守る『β』の弟として、常に穏やかに愛情をもって優しく接していこうと決意せざるを得なくなった。
家を出ていく柚希を止めることはできなかったが、せめてとまずは現在の家からあまり遠くない隣町にと一緒にアパートを探しに行った。すると偶然にも以前暮らしていた古アパートに空き部屋があり、柚希は住み慣れているという理由で公園横のあのアパートを借りなおした。
『環境を変えて一から出直す』との勇ましい口ぶりに反して、和哉の勧めがあったとはいえ昔の住処に納まった。その中途半端な行為からも、本当は誰より家族と離れがたく想っている兄の健気さが切なかった。
実をいえば和哉だって柚希と離れがたい。いっそ柚希と二人で暮らしたいと願って、柚希が一人暮らしをするといった時には何も考えずに思わず『僕も兄さんと家を出るよ』と口を突いて出たほどだ。
思いとどまれたのは二人暮らしという誰の目を気にすることもない環境にいけば、柚希への想いを拗らせ切った高校生の和哉が自分の気持ちに歯止めをかけられる自信がなかったからだ。
子どもの頃の『ワンちゃん』の甘噛みでは生ぬるい、若い獣の牙で即座に柚希を無茶苦茶に引き裂いてしまうのは明白だった。
長い長い片思い。柚希から時折与えられる蜜のように甘い優しさを舐めた程度で、飢えを満たせるはずものなかった。
だが父との間に起こってしまった出来事で傷ついた柚希に、さらに深手を負わせるわけにはいかなかったし、奪うように番にしたとして弟として可愛がってきた相手からの裏切りに似た行為に、柚希が幸せを感じるとはとても思えなかったからだ。
それでも柚希がΩになった利点は沢山あった。
一番良かった点は本人の希望でスマホを買い替え、通っていた専門学校での必要最低限の交友関係以外は全てリセットできたことだ。
あの事件の直前に数週間ほど付き合っていた女性に至っては、例によって向こうから交際を申し込んできたくせに、Ω判定を受けたと正直に話したのちにあっさりお別れをされて連絡すら取れなくなり、これには柚希も『俺はもう、男として見られないのか』と珍しくへこんでいた。
反して和哉は柚希という花に惹かれてつぎつぎと集まる悪い虫を根こそぎ一層できて気分爽快だった。
その上機械に疎い柚希のスマホの機種変更を和哉が全て手伝ってあげたので、和哉に都合のいいアプリを入れ放題だった。ヒートの予測アプリも、家族でスケジュールを共有するアプリも和哉が入れてあげて懇切丁寧に使い方を教えてあげた。
中でも友人や家族同士の位置情報を確認できるアプリは非常に重宝して、その後柚希の全ての行動をGPSで把握できるようになった。
授業の合間に柚希が何をしているのかと思いをはせるのも楽しかったし、居場所を把握できているから、専門学校帰りの柚希を迎えに行くこともできる。元来社交的な性格だった柚希が交友関係断ちをしたのはかなり寂しかったようで、迷子が親に出会ったようなぱあっとした笑顔を浮かべて和哉に駆け寄ってくれた。背丈もそこそこある年上の男なのに思わず頭を撫ぜたくなるほどに可愛く見えた。
いくら隣り街とはいえ共に暮らしている時よりは顔を合わせにくいのは寂しかったが、休みの日には朝から和哉が合い鍵で入り込んで朝食を作って、のんびり昼下がりに買い物に出かけてと頻繁に二人で会っていた。
互いに学校がある平日は、それぞれ自宅に帰ったら世の恋人たちのようにスマホのアプリで通話を繋ぎっぱなし互い気配や吐息等感じながら生活することもできたのだ。
柚希が家を出て一年後の冬はちょうど和哉も受験シーズン真っ盛りで、打ち込んでいた部活も引退し、塾と学校の往来ばかりの毎日は気ぜわしく年頃の青年らしく苛々と鬱屈がたまりがちだった。そんな時はことさら柚希のくっきりした二重がきゅっと細まると愛嬌が零れる、ぽかぽかと温かな癒しの笑顔が無性に恋しかった。机に向かい、スマホ越しに自室で柚希と囁くように会話しながら、柚希の吐息が悩ましくて少しむらっと来ることもあって困ったが、たまには音声だけで画面もつけてとお願いすると、湯上りの上気した頬が可愛い柚希も照れながら画面の向こうからややぶっきらぼうに手を振ってくれた。
「和哉勉強頑張れよ? 俺も仕事頑張る! 今度差し入れもってくからな? またドーナツだけど」
「甘いもの、頭使い過ぎて疲れてる時ありがたいよ。絶対合格するから見ててね?」
「和哉はきっと合格するよ。俺が保証する。だけどすごく頑張ってるからさ、合格したら、なんか言うこと聞いてあげるよ。何がいい? あんまり高いものとか無理だけどさ、俺にあげられるものならさ。何がいい?」
少し眠たげにあくびをしながら目を擦る柚希の言葉に、0時を回った深夜に同じく少し眠たかったはず和哉はたちまち目を覚まして思わず『なら、僕と番になって!』と迫り倒したくなったのを、拳を口元に当てうぐっとこらえた。
柚希という人はこんなふうに無自覚に人を煽るのが上手で困った奴なのだ。
「……焼肉、奢ってもらおうかな?」
「おお、いいぜ。せっかくなら母さんたちにも声かけていこうな?」
「母さん、焼肉じゃ絶対喜ばないだろ」
凛とした空気をたまに吸って深呼吸する、静かな真冬の深夜。
大体寝落ちした柚希が小さな寝息を立てるまで、他愛のない話をするのは、遠距離恋愛をしているような気分も味わえてそれはそれで新鮮で楽しかった。
辛く苛烈な出来事から産み出してくれた穏やかな日々に、和哉は兄と自分との関係性が少しずつ変化していくことを期待して、ひたすら春の訪れをまった。
専門学校を卒業後は柚希も社会人としてドーナツ屋で働き始め、和哉も無事に受験を終え大学生になった。
柚希は高校時代のバスケ部の仲間とは距離を置いたまま、和哉も柚希の連絡先を先輩たちに尋ねられても教えることはなかった。
柚希は女性ばかりの職場の中で一見楽しそうに暮らしていた。以前なら嫉妬をしまくっていたであろう女性たちとのかかわりも、Ω判定された事実を皆が知っているとなると逆に安全だ。
出来ることなら柚希を囲い込みどこにも出したくはなく、誰ともかかわらせずにずっと和哉だけの為に家にいて欲しい程だったが、現状学生の和哉にできることには限度がある。
大学も二年生になり、やっとあと1年もすれば就職の見通しがたち独り立ちできる未来が見えてきた。
長かったこの10年、ずっと柚希だけを求め追い続けてきた和哉が、ついに二人の間の差を埋め挽回できる場所に至れる。
それが和哉の慢心に拍車をかけたのかもしれない。
その年の冬。柚希が気苦労をかけ通しの両親に温泉旅行をボーナスを使ってプレゼントすると申し出たので、それならば自分にも半分出させて欲しいと和哉も年末年始がっつりアルバイトを入れた。
しかしそれが祟ったのか、年が明けて早々に和哉は人生で生まれて初めてインフルエンザにかかってしまったのだ。
悪いことは重なるもので、和哉が寝込んでいる間に柚希がたまたま彼女とドーナツ屋に買い物に来たバスケ部の同期と何気なく連絡先を交換してしまったのだ。
柚希がΩになってから、同じくバスケ部OBの和哉も兄貴に顔を出せと伝えろと再三みなに誘われてきたがあえて柚希に教えることすら無かった。
柚希はとにかく可愛い上に試合中はきりっと飛び切り恰好よくて、さらに清純で綺麗目という稀有な存在感が、逆にあの荒くれ集団の中で目立っていたから、学生時代の仲間の中にはきっと柚希のことを憎からず思っていた者も多いと和哉は感じていた。
そして誰をよりまず、OBにはあの佐々木晶がいる。
晶は先輩やチームメイトとしては非常に頼れる人格者で付き合っていて気持ちのいい男だが、敵に回したらこれほど怖ろしい男はいない。なにしろ和哉が知る中でバスケ部OB唯一のα、柚希を番にすることができる相手なのだから。
晶のことはより警戒して絶対に接触を持たせないようにしてきたが、よりによって和哉が寝込んでいるタイミングで兄が単独でバスケ部の新年会に顔を出す羽目になってしまったのだ。
無理やりにでもついていきたかったがインフルエンザの感染拡大をさせるわけに行かないし、柚希が行くと言っている以上止める理由が熱で完全にいかれた頭ではいい考えが思い浮かばない。止めたい理由があるにはあったが、それを口にするのは憚られた。
自宅から出られないだけでなく、うつしてはいけないから柚希にもこちらに来させることも出来ないのが頭を掻きむしりたくなるほど歯がゆかった。
『和哉、大丈夫? 新年会少しだけ顔出してくる。今年はさ、気持ちを切り替えていこうと思って』
「気持ちを切り替える」という非常にポジティブな一文が、妙に悪寒を増させて嫌な予感しかできずに和哉は布団の上で文字通りのたうち回った。
『気をつけていってきてね。僕も行きたかったな。今日はすごく寒くなるらしいから遅くならないうちに帰ってきなよね』
節々の耐えられぬ痛みや割れるような頭痛と戦いながら、何とかアプリのトーク欄にそれだけ打ち込んだ。
和哉は解熱剤や痛み止めを飲んで眠くなっては柚希を見張れぬと耐え、スマホを握りしめスマホのGPSの位置情報で柚希が和哉にも伝えられていた焼き鳥屋にいることを見張り、熱でくらくらしながらひたすら動きを凝視していた。
(柚にい。嫌な目に合っていないといいんだけどな……)
バスケのOBの間でも誰とはなしに柚希がΩに変じたウワサが出回っているのを和哉は知っていた。過去の仲間と柚希を関わらせたくないのは独占欲からだけではない。和哉自身も後輩という気安さで、柚希の代のOBから下世話な質問をされて、時には口論にすらなっていたが、柚希にはそのことを黙っていた。
きっと今頃好奇の的にされて、兄は傷ついているかもしれないと思うと、いても立っても居られない気持ちになった。
(僕の傍にいれば、嫌な思いをすることもなく護ってあげられたのに。タイミング、悪すぎ。僕と番うまで、もう誰とも繋がらないで。僕がずっと、兄さんを護ってあげるから。だから、早く帰ってきて、お願いだ)
途絶えた返信から、和哉の不安が募っている中、電車で帰ると思っていたら柚希はタクシーで移動してきて、日付を跨ぐよりずっと早い時間にきちんとアパートまで辿り着いていて柚希は熱で潤んだ瞳で画面を見つめ続け、ほっと胸を撫ぜ下ろした。
新年会から戻ると柚希は普段の習慣通り、スマホの電話を繋ぎっぱなしにしてくれて、『和哉、大丈夫? 少しは気分良くなった?』と声をかけてくれた。
柚希の声はいつ聞いても耳に柔らかく円やかで、それだけで気分がかなり上向く。和哉は熱で朦朧としながら掠れた声で『大丈夫。だいぶ良くなったよ』なんて見栄を張っていたら、柚希がいきなり和哉ではなく部屋にいるであろう別の誰かかと会話を始めたのだ。
その衝撃でがたがたと震えるほどの悪寒が進み、ぐんっと熱が上がる心地になる。「誰かいるの?」と咳でしゃがれた声をかけたら、今度はより明瞭によく知る男の声がスマホの向こう側から聞こえてきたた。
『和哉、俺だ。晶だ。新年会来られなくて残念だったな? また別の機会に飲もうな? お大事に。よく寝た方がいい』
『かず、もうゆっくり、おやすみ……」
(佐々木晶! どうして柚にいの部屋に?!)
やや不安げな柚希の声を最後に、ぶちっと通話を断ち切られたのだ。
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