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3 逃避②
『俺と番う気がないのに、なんで付き合ってくれたの?』
発情休暇をきっちり使い切ってシェルターホテルからヘロヘロの状態で自宅に戻ってきたら、帰宅を見計らったように訪ねてきた晶から流石に傷ついたような哀しい顔でこう言われた。
いっそ怒鳴りつけてくれたのならまだましだったが、晶は元々は穏やかで優しく、柚希にはもったいない程の気配りの出来るいい男だ。
「晶のことは好きだ。番う気がないわけじゃない……。ただちょっとだけ、気持ちを整理する時間が欲しいんだ。俺、Ωになってまだ3年だし……」
柚希はバスケ部出身で背丈もそれほど低い方ではない。αだった父の若い頃と今でもイケてる美人の母の若い頃を足して二で割ったような顔は、割と目鼻立ちは華やかで整ってはいるが、だからと言ってふわふわと甘い女の子みたいな感じでもない。
親の再婚で弟ができてからは長兄としての意識が強くなり、一緒に暮らした当時は小さくて華奢だった弟を守ってやるんだといつでも意気込んで生きてきた。つまりいっぱしの男として地に足をつけて生きてきたつもりだ。
それが専門学校の2年生の時に突如君はΩです、よって子どもも産めますと医師から告げられ、世界が180℃変化し、その少し前から付き合っていた娘とも別れることになった。
オメガ判定を受けても希望だった製菓業界に就職するという願いは叶ったが、自分を見る目の変わった友人たちも含めて、失ったものも沢山ある。
今まではただ同情的に見て居た番と死に別れたΩである母のことも、時期が来ると発情フェロモンに支配され我を失う姿に心の底から哀しく憐れだと思っていた。しかしまさか自分までもがその狂おしいフェロモンに支配される当事者になるなどと夢にも思っていなかったのだ。
『少しずつ俺に慣れていって? いつかは柚希の全てが欲しい。でも今は待つよ』
情動から口付けを交わしても結局はそんな風にいって止め、柚希のまだどこか冷めたままの身体を熱い掌で優しく撫ぜ、宥めてくれる晶が好きだ。
晶が今までと変わらぬ態度で寄り添ってくれると、自分はまだ何もかも今とは違っていた、自由で闊達だった頃に戻れるような気がするのだ。
だが結局それは多感な時期に長い時間をチームメイトとして共に過ごした可愛い後輩である晶のことが大好きだったという、その域を出ていないのかもしれない。
あの時この世の中で宙ぶらりんな存在になり果てた柚希を引っ張り上げてくれた恩人である晶。彼が望むなら全てを捧げてもいいと思う日もある。
しかし結局は柚希はいつまでたってもどっちつかずの気持ちと心を抱えたまま、そしてまた今回も直前までぐずぐずと踏ん切りがつかずに、柚希は番になることからまた逃げようとしている。
(これから生活していくうえで、俺も番を作った方が都合がいいし、それなら気心が知れた奴がいいのかもって初めは思ったんだ。人間的に愛せる奴なら、そのうち恋愛的な意味で好きになれるかもって、付き合うのOKしたのに。その俺が煮え切らないんじゃ、やっぱダメだよな。晶みたいないいやつのこと、好きな子はいっぱい居るだろうし。とにかく俺が悪い……。この発情期終わったら、きちんと別れてやらないと、な……)
晶のきりっとした眦が柚希を見れば陽だまりのような温かく優しい眼差しと笑顔をくれる。柚希の身体と心の準備が整うとのを待つと信じてくれていた晶。
そんな彼を裏切り、二度も番うチャンスを見送らせたという後ろめたさと、申し訳なさで昨晩から柚希はまんじりともせずずっと眠れずにいた。
しかしこんな人生の一大事、数か月で決心が付けられるわけがない。何人でも番が持てるαと違ってΩは番を作れるのは一生に一度なのだから。
(いっそ……。強引に有無を言わせずに奪ってくれたら。踏ん切りもつくのかな? それが俺の運命なんだって)
いつもきっちりと背筋を伸ばした真面目な晶が柚希の傍にいる時は寛いだ様子で男らしく整った顔を大きく崩して、豪快にあくびをしたりする。
そんな時、彼のα特有の大きく発達した犬歯が清潔感溢れる口元からちらりと覗き見える。それに言いようもない興奮を覚えるのはΩのサガか。
がっしりと身体の大きな彼に背後から押さえつけられ、口に含み切れぬほど大きなアレを嵌められ、思うさま揺さぶられたら。そしてがつがつと遠慮なく突き上げられながら首筋に牙を突き立てられたら。きっと想像もできないほど、途方もない快感が待ち受けているのだろう。
怖くてたまらないくせに、そんな身勝手なことを想像して、柚希は熱い吐息を漏らして乾いた唇を舌で湿らせながら布団の中で震える。
今もまた少しずつ腹の中で逆巻く熱の怠くて甘い疼きにたえながら胎児のように丸まり布団にくるまったままの状態でいた柚希の耳に、がちゃがちゃっとドアノブが回される音が聞こえてきた。
鍵はかけているのでここに入ってこられるのは合い鍵を渡している家族と晶だけだ。しかし一瞬だけ、もしかして晶が来たのではないかと身を強張らせ緊張する。あんなことを想像しているくせに、でも惑ってばかりの自分は、どんな顔をして恋人に会えばいいのかわからなかったからだ。
「柚兄 大丈夫?」
眩しい陽光がダイニングまで差しこんで、ふわりと果物に似た芳醇な甘い香りが漂ってきた。隣の公園にはこの時期金木犀の花が芳香を漂わせるからその香りが風に運ばれてきたのだろう。
ゆっくりと首をもたげるとコンビニ袋を手に下げた弟の和哉が乱れたベッドの上、ぐったりした柚希を見おろしていた。
(……晶は今仕事中。来るはずないか)
中々自分からは顔を見に行けない弟がこうして駆けつけてくれたことはもちろん嬉しい。しかし一瞬でも晶が来てくれたのかもと期待し、期待したくせに来なかったことにほっとし、そんな複雑な顔をして弟を見上げた柚希は目をつぶって大きく息を吐きだした。
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