31 HAPPY START ①

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31 HAPPY START ①

 これほどすっきりと目覚められたのはどれくらいぶりだろうか。  食欲をそそるオニオンスープの良い香りがしてきて鼻先をくすぐられる。食べることが大好きな柚希は、胃袋を刺激されながらふんわり温いの布団の中でもぞもぞと身体を動かした。 冬眠明けに初めて巣穴から顔を出す動物のようにのっそりと顔を上げたら、窓の外は赤赤な太陽が燃えていて、それが朝日なのか夕日なのか、一体今がいつの何時かさっぱり分からない。 「柚希」 不意に声をかけられてそちらを振り向くと、びりびりっと首の後ろが痛みを訴えかけてきて「ひぃっ」と身を竦め、顔もぐしゃりと顰めてしまった。 「大丈夫?」    よく響く耳触りの良い声は弟の和哉に間違いない。  あまりに心配げな声を出されたので、何も考えずにこくこくと頷けばまた頸が痛くて、これは気にしないようにするというのも無理そうだ。 「へ、……へいき」  やせ我慢の涙目で声のする方を見上げると、お洒落な若者らしいモノトーンの上下にカジュアルなジャケットをきちんと羽織った和哉がベッドサイドにやってきた。  その顔ときたら長いこと和哉と共に育ってきた柚希であっても、これほどの満面の笑みはお目に掛かったことはないというほど、内面から光がぱあっと挿しているようなにこに朗らかな笑顔だった。なんだか照れくさくて顔を伏せた柚希の身体をいそいそとローブで包んでくれる。 「柚希、寝返り増えたから、そろそろ目を覚ますと思った」    恥ずかしがる柚希にわざわざ目を合わせるように顔を覗き込んでくる仕草が小憎らしい。首が痛い、身体中がぎしぎしいう、お腹すいたとあれこれ文句の一つも言いたくなった。実際出た言葉はがさがさの「かず……」の一言で、すっかりしゃがれた自分の声に首に手を当てて目をぱちくりとさせた。 「ふふ……。兄さん声の出しすぎ。大事にしないとね」  指先で羽のように柔らかく柚希の唇をなぞり、意味深な笑みを綺麗な目元に湛えて見据えてくるから、柚希は胸がきゅうっと苦しくなる。  幼い頃の和哉が甘えて柚希の胸に飛び込んできた時など、時折こんなふうに胸がきゅんきゅんとなったが、それのもっと切なく狂おしく強いような衝動に襲われるのだ。 (なんだなんだ、これ。和哉を見るといちいち胸んとこ、しくしくするやつ……)  今までもずっと、和哉のことは本当に愛おしいと思って生きてきたが、番になったせいなのか、彼の仕草や眼差し、触れてくる指先一つ一つに胸が高鳴りじわっとその部分から熱が生まれてくるような不思議な感覚に包まれた。  戸惑うが嫌な感覚ではけしてなく、ただもっと触れて欲しくてじいっと物欲し気な顔をして和哉を見つめてしまった。 (もっとずっとぴったりくっつくぐらい、傍にいて欲しい)  どうして抱きしめていてくれないのか、どうしてもっと強く求めてくれないのか。そんな風に思ってしまうほどの欲が後から後から湧いてきて、袖を皺が寄るほど強く引きながら掴んだ辺りでわれに返る。 (俺、今何考えてたんだ……) 「柚希、すごく可愛い顔してる……。色っぽいね」 「恥ずかしいだろ」 「恥ずかしがるとこが、可愛いんだよ? ベッドの上だとあんなに積極的で、魔性って感じなのに、また元の兄さんに戻っちゃった?」  そう言いながら顔を近づけてきたから、柚希は無意識に口づけを強請るように顔を上にあげたのだが、和哉は拳を握って耐えるような顔をしたのちに兄の双肩を掴むにとどめたのだ。寂し気な顔をしてしまった柚希を喜ばせようと和哉は明るく部屋の隅を指差した。 「柚希、お腹すいたでしょ? 食事を運んでもらったから、一緒に食べようよ」  頷くと首が痛いので身を固くしたら、正直な腹がぐーっとなって先に返事をした。くすくすと笑う和哉に、柚希ははにかんで照れ笑いを返す。  和哉は兄の大きな瞳が半月のように綺麗に細まるまろやかな笑顔にとにかく弱い。 「駄目だ……。愛おしすぎる」  甘い声でぽつりとつぶやき、和哉がうっとりとでも形容できそうな優しい微笑みを浮かべて柚希のことをぎゅうっとハグして、頭のてっぺんにキスをしてきた。  先ほどはあんな風に腹の底から和哉を欲したのに、こうして当たり前のように抱きしめてこられると柚希はどぎまぎと目線を泳がせ、心臓が急激に早鐘つ。 「なんだか大人しいね? また忘れちゃった? 僕の番さん」 「あ……。俺ら、番に、なった?」 「柚希が忘れても、僕が覚えてるから大丈夫。なったよ。僕ら番に。沢山噛み痕つけちゃってごめんね?」 「……ちゃんと、おぼえてる。和哉ががぶっときた。容赦なく」  所々は切れ切れだが、今回はばっちり、要所要所は覚えている。  和哉は恨み言を呟かれるのすら嬉しくてたまらないようで、すっかり浮かれて大きな身体で今にもダンスでも踊り出しそうだ。年相応の青年の顔をした和哉はやっぱりこんな大きな図体をしていても柚希にしたら可愛く見える年下の男だ。 「がぶっといったよ。それはもう、10年分の積もり積もった思いを込めてがぶっとやった! あははは」 (久々に見たな……。和哉がこんなふうに大口開けて笑うとこ)  牙のようにも見える犬歯が良く見える。屈強な身体つきに知的な美貌。どこをどう見てもαらしい和哉を今までどうしてβだと思い込めたのか。 (和哉が色々画策してたってのはあるだろうけど……。俺がそう思い込もうとしてたんだろうな……。和哉がαだったらって望むことをどこかで自分に駄目だと思い込ませてた)  部屋が昏くなってきて、今は夜に向かう時刻だとようやくわかった。  しっとりと落ち着いた空間に戻ったが、和哉はお日様の光の下で活動しているような輝く存在感を放っている。和哉は幼い頃、バスケのシュートを決めた時など、こんなふうにいつでも屈託ない笑顔をしていた。  生来はこういう陽の光が似合う青年なのだ。それを柚希が翳りの中に押し込めてしまっていたようなものだ。  少しずつ愁いを帯びた笑顔を浮かべるようになっていたのは、今思えば柚希への報われぬ恋に身をやつしていたからなのだろう。 (俺なんかを好きになったから……)    しかし久しぶりに和哉をこんないい笑顔をもたらしたのもまた自分なのかと思うと柚希は少しほっとして、誰構わず申し訳なくて、そして晶のことが頭を過ってまた胃の腑が小さく締め付けられた気持ちになった。  だがそれは努めて顔には出さなかった。  柚希がやや思案気な顔をして傾けた白い項に、和哉が感極まったような泣き笑いみたいな表情で吸い寄せられるようにそろりと手を伸ばしてきた。  痛みを覚えるその部位は敏感で、流石に触られたら堪らないと柚希は身体を引いた。それがまた拒んでいるように取られたかと心配になり恐る恐る上目遣いに見上げたが、和哉は気分を害することなく溢れる笑顔のままだ。 「ごめん。嬉しすぎて、手当てしたのに何回でも見たくなっちゃうんだよね」  ずきんずきんと痛む項に張られているガーゼとテープのやや引き連れた感じが伝わり、そこから今度は消えてはいない幾たびの生々しくも情熱的な交接の記憶が呼び起される。完全とはいかないが、きちんと残っていた。  人生で感じたことがない程の快感と繰り返し囁かれる愛の言葉、奥を穿つ和哉の杭は熱く硬く、いつまでも絶えることのない交接にイキすぎて気をやりながらも、意識が戻ればまた柚希も彼を求めて続けていた。  初めての和哉との深い触れ合いだったのにもかかわらず、何か懐かしさも覚える熱い掌に翻弄され、だが時には自らの身体で和哉を惑わし墜とした。 『かずぅ。もっと、ちょうだいってばぁ!』  強請れば訪れる更なる快楽に溺れ、互いの息遣いだけが聞こえる間にも何度も唇を交わし、少しでも身体が離れれば、すすり泣いて欲しがった。  和哉がいくらでも身を捧げんとばかりに抱き寄せて強く強く抱きしめてくれると、安心してまた欲しくなる。 『柚希……、何度でも僕をあげるね? 沢山あげるから……』 『沢山ちょうだい! すき。かずは、おれのなの! ぎゅっとして!』 「ぐわあぁぁ!!! 恥ずかしくて死ぬ!」 「何1人で悶えてるの? 」  思い出しては艶めかしい夜の断片に苛まれて柚希は寝台の上を痛みを忘れて転がりまくった。バスローブの足元もはだけて、身体は満身創痍、顔は見て居ないが多分髪の毛がぐしゃぐしゃだからきっと顔も酷いありさまだろう。 (にしても……。和哉、かっこいいな。俺だけ、よれよれ、とほほ)  憑き物が落ちたように目元も澄み清々しい表情の和哉が、今宵はまた一段と男前に見えて困る。 (敦哉さんに似てるなあと思ってたけど……。カズってやっぱりお母さんにも似てる)  柔和な表情はあの花の天使のように愛くるしく朗らかな雰囲気だった和哉の母に似てみえた。もう日が落ちてきた時間だというのに、明るく輝く美貌は自信に満ち溢れてとても幸せそうに見えた。その笑顔に柚希は自分の選択は間違えではなかっただろうと信じることができた。 「ほら、いくよ」  再びローブを綺麗に直し着せ掛けられて抱き上げられたから、素直に腕の中で大人しくしていると、和哉が優しく口づけを額に落としてきた。  もう避けられないと分かると悪戯っぽく瞳を輝かせたので、柚希の方が物足りなくなって後頭部に手を回してまだ近くにある顔を引き寄せると男っぽい仕草でちゅっと口づけた。  思いがけぬ兄からの甘やかな報復に、和哉がらしくなく耳まで真っ赤にして目を白黒させている。 「な……。柚希」 「恥ずかしがるなよ。俺の方が恥ずかしく、なるだろ……。お前、俺の番なんだろ?」  睫毛を伏せて頬を染めた兄に和哉の方からまた鼻先同士をくっつけるように愛おし気に擦り付けられた。 「あんまり煽らないでよ。食事の前に、また柚希が欲しくなっちゃうだろ? 先に食事にしようね?」 「……うっ、お前そういうの……」  わざと言ってるのかとか聞こうと思ったが愚問だろう。和哉は昔から同級生から男女問わず『王子様』と言われ続けた超絶美男子だ。  普段は寧ろチャラついて幼く見えるような素振りをしている気すらするほど気のいい雰囲気を装っているが、素顔の方の和哉はもっとずっと柚希にだけ甘くて堪らなく素敵な人だったようだ。    
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